大山神社考

About Ooyama jin’ja

大山神社

大山神社と八阪神社

宍喰の大山神社をご存じだろうか?祇園さんと呼ばれる八阪神社に押され、どうも影が薄い気がしてならない。

八阪神社

八阪神社は、宍喰の町中の総鎮守みたいな存在で、祭日には山鉾がお出ましになり関船、だんじりが引き回され、能の上演もある。京都、備後と並び、その古さから三大祇園と呼ばれる。それはそれで価値があり、素晴らしいと思う。祭神は素戔嗚尊だが、当初は鷲住王(わしずみおう)であった。この鷲住王は宍喰付近から野根に至る地帯を領有し脚咋別(あしくいわけ)の始祖とされている。

関船

ところで、大山神社は今もなお、鷲住王を祭神としている。角坂の九艘谷(くそうだに)から鳥居峠(とりいのと)を経て、麓の塩深(しょうか)集落から山道を登るルートは大山神社の参道だ。途中十二の僧坊があり、繁栄を極めた。大門、華表坂(はなさか)と地名にも残っている。

大山神社

宍喰の始祖を祀る神社として、重要なのは大山神社の方ではないのか?確かに八阪神社の近く久保には宍喰古墳もあり、古墳時代から集落があったと想像できる。八阪神社の創建は鎌倉期以前に遡ることができる。脚咋別は履中天皇期だから5世紀頃だ。どうも、ぽっかり空いたブラックホールがあるように感じられてならないのだ。

脚咋別と塩深

脚咋別というのは、宍喰川と野根川の両水系に跨っている。そのほぼ分水嶺に大山神社は鎮座する。まるで両水系の集落を統括するかのようだ。麓の塩深にはあちこちに向かう山道がはりめぐされており、交通の要衝であったことがうかがわされる。その中に野根の真砂瀬(まなごせ)に向かう道もある。このヤヘド峠の道は幕末に野根山二十三士が阿波に入って来た道と言われている。塩深は脚咋別の首府あるいは城下町的存在だったのではないか?

塩深 成福寺

塩深には別に氏神がある。大正初期に大山神社に合祀された御崎神社だ。大山神社の向かって右に鎮座する。祭神は調べられてないが、海部川流域の御崎神社のように猿田彦でないと予想している。えてして宍喰の御崎神社は別の神を祀っているからだ。

塩深の民は阿波忌部の鷲住王を受け入れ、大山神社として祀った。大山神社の祭日は年に4回ある。1/8と4/8,6月のごさい、そして10月の秋祭り。秋祭りは御崎神社の祭りで神社の幟が立てられる。宍喰をあげて祀られて来た大山神社だが、今では氏子は麓の塩深のみになってしまった。信心深い塩深の方々は参道の掃除など、労苦を惜しんでお世話をしている。しかし宍喰の始祖を祀る神社なのだから、もっと顧みられてもいいのではないか。

御崎神社

和奈佐との関連

鷲住王は履中天皇の妃の兄になる。履中天皇は第17代で「宋書」にいう「倭の五王」のうち「倭王讃」に比定される。播磨風土記に謳われた履中天皇の行幸が和奈佐になされたことから、脚咋別が現在の那佐付近まで領域としていた可能性も十分にある。式内社である和奈佐意富曽神社(わなさおふそ)の祭神は、やはり大麻神かもしれない。

和奈佐意富曽神社

こう考えてはどうか。鷲住王は和奈佐から野根に至るまでを脚咋別として領有した。北端の和奈佐に和奈佐大麻神社を祀った。自身は大山神社を拠点とし、宍喰川と野根川流域の経営に力を注いだ。その後、讃岐に移ったが後継者が残り、その者が宍喰古墳に祀られ、八阪神社に鷲住王が祀られた。

大山神社を参拝し石段を降りようとした。大山神社は東向きだ。木立の切れ目に海が見える。その海は宍喰の海、そして那佐の海だ。途中には鈴ヶ峰、そして和奈佐意富曽神社があったとされる那佐を見渡すことができる。大山神社-鈴ヶ峰-和奈佐意富曽神社(那佐大宮)はほぼ一直線に並ぶ。大山神社、脚咋別はやはり那佐までも含んでいたのではないだろうか。

鈴ヶ峰から

*「八阪神社」については、鳥居の扁額にこざとへんの「八阪」が使われていますので、それに従い表記しています。


位置図


八阪神社


鈴ヶ峰


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