「くだらない思いつき」
僕が2カ月前に下した「あの決断」を後悔しない夜はなかったと云っていいだろう。
発端は帰省中の1月の終わり頃。小学生から通っていた地元・神戸のラーメン屋に行ったときのことだ。
前回の帰省、すなわち1年ぶりに踏みしめた地元は、商店街でわずかに店の入れ替えがあったくらいで大きな変化はなかった。
その変わらなさをさらに確かめようと、僕はラーメンをすすった。
ラーメン。僕が軽蔑する料理の1つ、と同時に、無矛盾に最大限の愛をささげる料理の1つ、ラーメンだ。
若く夢見がちだったころの僕は、唯一とはいかないにしろ、なんとなくの正解がラーメンにあると信じていた。僕が愛してやまない1杯が正解におさまるのか、はたまた異端の誹りを受けるのか、子細に検討してきた。
僕は、思い出のラーメンに眼鏡を曇らせ、追加トッピングしたニンニクの香りに包まれながら、真剣にこう思った。
「これを超えるラーメンなんて地球上に存在しない」
そしてこうも思った。
「これまで食べてきた他店のラーメンを延々と積み上げたとして、今眼前に置かれた1杯に勝るものはない」
と。
十分すぎる2つの根拠を得て店を後にした僕は、即座に「ラーメン断ち」を決意した。
次にラーメンを口にするのは、帰省し、この店の暖簾をくぐったときだ、と。
思うにラーメンというのは、何も難しい顔をして食べるものでもない。作っている方に失礼なことを云ったかもしれない。
こう云い替えた方がいいかもしれない。
すなわち、「ラーメンは、おいしいものから順にランキングを作るなどそもそも全くのナンセンス。そして誰かにとっての最悪の1杯が最高の1杯という奇跡をしばしば引き起こす料理」なのだ。
この真理に到達する前の、暗い日陰道を歩いていた僕はしばしば、ラーメンの正解を求めて、多くの賢人の言を拾い集めてきた。
その結果の中間とりまとめをここで披露すると、ラーメンを前にしたとき、筆も口も立つあまたの美食家たちは誤った判断を下しているようにしか見えない。彼ら/彼女らは、他のジャンルの料理を評する手つきで、精巧なギミックや品のいい美辞麗句をもって最高の1杯だと信ずるラーメンを讃える。
ただ僕は、ラーメンを評したあらゆる文筆物のうち冷静な判断ができているものに、いまだかつて出会ったことがない。
僕は顔なじみの信頼できる店の料理人にラーメンのおすすめを聞くようにしているのだが、一度も根拠ある回答を得ていない。そこに辛うじて見いだしうるのは、無化調主義くらいのものだ。そして場合によっては、無化調主義すらも、幼少時代の「美しき思い出」に囚われ、化学調味料をよしとする向きもある。
ラーメンを前にしたとき、美食家は存在しない。
その理由は、ラーメンがここまで述べてきたように、フェティッシュ(思い出やファーストインパクトなどに支配された思考枠組み、例えばお袋の味がその1つ)に耽溺しやすい料理だからであり、その証左の1つとして現状の最新版ミシュランガイドにはラーメン屋の星付は全国で3店(全て一つ星)しかないという事実にも象徴されている。
僕は僕の信ずるところに従って、1月からラーメンを口にしていない。少なくとも、僕の信ずるところに従う範囲では、だ。
ただここで問題が生じた。
完全な興奮状態の中、ゆるがぬ自信をもって決断した「ラーメンを口にしない」という判断は、思いがけず僕の生活の障害になっている。
まず〆のラーメンに参加できなくなる。酒場好きとしては非常につらい決断だ。なにせそれまで元気よく飲んでいた人間が、〆のラーメンに行こうという流れに傾きかけると「そばはどうでしょう」と強引に朝までやっているそば屋に押し込むのは明らかに不自然だ。幸いにして、僕はラーメン屋にまだ入らずに済んでいる。
他にもある。
冬の宴会で鍋コースを頼むと、たいてい〆は「麺で」ということになる。これも大変なことだ。みんなが食べているものを「いや僕はちょっと」と困惑していると、調子でも悪いのかと勘ぐられかねない。「自分はラーメン断ちをしていまして、それにはこういういきさつがあってですね」と説明を始めると、僕はその飲み会で、話が長くて、よくわかんないけど、なんとなくめんどくさい、鼻つまみ者となってしまう。
まだある。
国民食となったラーメンと非ラーメンに境界線を引くのは非常に難しいのだ。僕は自らとの絶え間ない対話を経て、汁なし担々麺をラーメンから切り離し、その購入を自らに許可した。ただ札幌出張中のある日、上司に連れられて入った、ちゃんぽん専門店で、僕は独り薄氷を踏む思いだった。なにせ運ばれてきたちゃんぽんからは、明らかに禁断の香りがしたからである。久々に味わうラーメンに似た香りだ。なぜなら、ちゃんぽんは麺こそ異なるものの、スープは明らかに豚骨ベースだったからだ。僕は、自らの誓いを破ったのではないかという、汁なし担々麺の時にはなかった背徳感を覚え、ちゃんぽんはラーメンに片足を突っ込んでいるのだと知り、即座にこれからはちゃんぽんも口にしないことに決めた。
まだまだある。
ラーメン断ちをし、至上の1杯が決まっているという僕と知っての狼藉か、知り合いが次々に最近行ったうまいラーメン屋の話をする。改めてみんながラーメン好きなのだと知った。そして決して交わることのない、お互いの好きを、所構わずぶつけ合うのだ。僕はただ黙って、時が経ち嵐が過ぎ去るのを頭を低くしてひたすら待つしかない。
以来、まちを歩いていても、暖かくなった午後のまちを窓を開けて車で走っていても、僕はラーメンのにおいに敏感になった。google mapを開いても「行ってみたい店」に登録したラーメン店が目に付くようになった。
僕は自らが考案した、禍々しく、馬鹿馬鹿しく、ラーメンに関するくだらない持論を振りかざして自分の精神をなだめなければならないほどの、思いつきに縛られている。そして春が静かに滑り込んできた。ラーメンの1杯は依然として遙か彼方なのだが。
2020/03/29