「この世界を覆っておる悪夢」

悪夢のようだ。

だが悪夢ではない。アメリカの各地で日々起きている出来事だ。
トランプ大統領登場を背景に顕在化した白人至上主義者たち、そして白人至上主義に究極的には暴力で対抗するアンチファシストたちの衝突。

記事の内容をまとめると両者の主張は以下の通り。

白人至上主義者
➡俺たちは反白人のプロパガンダにうんざりしている、俺たちは他の人種と比べてみても人種的に差別されている。(俺たちが未だに貧困の中にいるのは他のマイノリティへの配慮が過剰であるためだ)

アンチファシスト
➡白人至上主義者たちの言説は言論の自由を逸脱している、その上奴らは”暴力”で我々を傷つける存在だから暴力を用いて対抗する必要すらあるだろう。(ファシストの再登場を決して許してはならない)

そしてここがポイントなのだが、両者はそれぞれの主張を表現するために”デモ”を行なっている。
そのことがこの出来事をより一層、悪夢的にさせている。


私がいま日本で最もクールでヒップなヒップホップクルーではないかと思っているJAZZ DOMMUNISTERSの2ndアルバム”Cupid & Bataille, Dirty Microphone”(2017)が、このような悪夢的な状況を、非常にシンプルなhookをループさせることで、的確に図式化している。

反対の賛成だsay 賛成の反対だsay
(『反対の賛成』アルバム全13曲中9曲目収録)

元ネタは赤塚不二夫先生のバカボンかららしいのだが、学生と教授の対話を形式として進む6分半のこの曲の白眉はなんといっても、「反体制」と「反対の賛成」で韻を踏んでいる点に尽きる。
優れた韻を踏むこととは、すなわち「一面の真理」を我々の前に暴力的に叩き付けることである。
繋がっていないように思えていた、何かと別の何かが、実は繋がっていることを端的に示す。

あるステートメントに対して我々は通常、賛成と反対、に分かれて議論を行なう。多くの人が話し合いに加わるほど、議論のコストを抑えるために、思い切った二分化/単純化/図式化、をする。
だが我々は本当に、ある物事に対して純粋で透明な主体として賛否を表明しているのか?
否、物事はそう単純ではないと我々は既に知っている。

出発はもしかしたら純粋な自分の思考を通して導き出した意見だったかもしれない。だが対話を繰り返すほどに、多くの人は自らの意見にしがみ付くようになり、「なぜそう考えるのか」を問われ続けると、究極的には根拠がなくなったりイライラしてきたりして「おれがそう思うからそうなんだよ」と独我論的トートロジーに陥る。

あるいは体制側の保守性が気に食わない人たちは、ただそれだけの理由(それは手軽に思想の雰囲気をまとっているファッションのようなもので本質的では決してない)で「反対の賛成」あるいは「賛成の反対」を表明する。
そして保守派たちは「反対に反対」し「賛成に賛成」するのである。

こうしたトートロジーは無限ループをひとりでに始め、状況は悪化の一途を辿っていく。


反対と賛成という言葉の密林の中で迷子になった方々。
みなさんの感覚は決して間違っていない。

なぜなら、ここに出てきた言葉はとても幼稚で「正ー反➡合」のようなグレーゾーンや妥協案を許容するような「建設的な思考」が全く見られないからである。
だから賛成の反対であり、反対の反対、のようなレトリックとなってしまうのである。
主張の根拠を誰かに対するヘイトや自身のこだわり、とした時、議論は硬直する。

そして冒頭のアメリカの白人至上主義者たちとアンチファシストの衝突も結局のところ、そんなところではないだろうか。

白人至上主義者たちは遥か昔に安価な奴隷同然の労働力として渡ってきた移民たちに支えられた社会システムにあぐらをかき、そして今や移民たちにあらゆる職を奪われ、その不満のはけ口を彼ら彼女らに向ける。
そのさまは、キリスト教徒たちが我々は異教徒たちによって虐げられていると「猫をかぶる」ことによって弱者/敗者を装い、ルサンチマンとして価値転倒を成功させたキリスト教徒たちは後に強者に見立てた異教徒たちとの戦い<聖戦>を自己肯定していくさまと、どこか似通っている。

対して、反ファシズムたちはどうか。
多様性の容認などという恐ろしく危険な言葉を振りかざしたリベラル派は、多様性という名のもとにとんでもない「ゾンビ」や「エイリアン」のような異物としての「危険思想」や「異常性癖」の許容を認めるかの選択をブーメラン式に迫られている。
ブーメランの恐ろしいところは、リベラルを標榜する主体がいつの間にか、レイシストに変貌している、という点である。
友人だと思っていた彼/彼女が、振り向くとゾンビ/エイリアン/敵になっていた時の恐ろしさとは、自分が内に抱える両面性の負の部分を鏡像として見せられるために生じる。
戦争を止めるためには、戦いの中に身を投じ、戦いの決着を付けなければならない、という矛盾がリベラル派を苦しめる。


日本は太平洋を挟んでいるために対岸の火事だと思ってはいけない。

私たちの住むこの国にも、レイシストたちはリアル/バーチャルを問わず存在しているし、それに対するカウンター勢力として、例えば「在特会」(レイシスト)に対する「しばき隊」(カウンターレイシスト)といったように、同じ穴の貉、と呼ぶしかないような図式は至る所にある。
ある団体のデモに対する妨害デモが道路を挟んだ向こう側で並行して行われている日本。
そしてそのどちらにも同じ制服を着た警官が前後に誘導役としてついている。

リベラルを標榜するモデレートな人間たちが、体内に蓄積された差別的な言動に対する憎悪や怒りによって、内面から食いつぶされとうとう外面すらもエイリアン化する、この恐ろしさを悪夢と呼ばずして、何と呼ぼうか。

「悪夢」以外に、私たちの住むこの世界を形容する言葉があるのだとしたら、それは「終わりなき地獄」だ。

2017/9/14

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