「たぶん煙が好き」

ところで煙の話なんだけど。

ヒトと煙との関係は食事の為に火を熾すところからだいたい始まった(とここでは仮定しよう)。
しばらくして火は無くてはならない日用の道具から、その揺らめきを凝視していたジャンキーの大先輩がそこに神性を見い出し、信仰の対象とするようになっていった(ような気がする)。
心の拠り所を求める狂信者のスキゾ的な論理を綺麗に継ぎ接ぎし、体系だてた人の手によって宗教の原型は創始された(と云えばスッキリする)。
気に入らないヤツがいたら、共同体の浄化を図るため、或いは神に背いた、などとでっち上げてとっちめた後は、火を焚いて燃やしておけばよかったのだろう。


数十万年後。
火はより実践的になった。
高度な火の使用が進んだ一方、数十万年前の大先輩たちが親しみ畏れたような原始的で素朴な火は我々の眼前から遠ざかって久しい。
電気を作るために石炭を火で燃やしたり、バーチャルリアリティの中で火炎放射器を振り回して万能感のあまり悦に入ったり。
火そのものが危険だと考えた消費社会は、オール電化、IQOS、レストラン前に設置された篝火に見立てたオブジェなどをせっせと作り、火のリスクを社会から排除しようとしている。

喫煙者への過剰な忌避、分煙化の徹底には、ヒトが火をそして煙を根源的に恐ろしいと思っているメカニズムが働いている、などと云えば馬鹿丸出しだ。
ここでのポイントは「イヤ~ン、火ってチョ~コワ~い」すなわち火が恐ろしい、と人間は考えてるわけじゃきっとなくて、「煙って不気味だよねぇ」だから火が怖い、のだという点だ。

キャンプ場でキャンプファイヤーをしてるあなたは、目の前に組まれた薪と盛んに燃え上がる炎を見て消防車を呼ばないだろう。
火は神聖なのだ。それは数十万年前からの大先輩が眺めてた炎と変わらないからかどうかは分からないが、ともかく火は人を厳かな気分にさせる。
火から生まれた煙は天高く立ち上り消えていく。その煙は地上と宇宙、あるいは宇宙にぶつかる前の大気圏辺りの天国の死者たちを結びつける紐のように思えてきて感慨に耽ったロマンチストも少なくないだろう。

だが、アパートの3階から煙が出ているのを見るとあなたは我を見失ってオロオロするだろう。
火が見えるとまだ消せるかもしれないと思えるかもしれないが、扉から漏れる黒煙だけが見えたとき、煙はあなたを何重にも怖がらせるだろう。

とかく煙とは我々の想像力を天国にも地獄にも放つことができるのだ。
そして大切なことは、炎ではなく煙に火の本質があるということだ。
炎は見かけだけでわたしたちは煙を注意深く意識しているに違いない。

では、キャンプ、火災それらの非日常以外で私たちが都市部で日常的に火/煙と触れられのは、冬場の鍋に欠かせないガスコンロの炎、煙草につける火、理科の実験で使うアルコールランプの火くらいがせいぜいではないだろうか。

そうなると煙草の火はやはり社会的に一般的なより実践的な火/煙であるように思える。
煙草を味わう変わり者のヒッピー野郎は滅多にいないために、誰もが煙草ではなく「習慣」に火を点けているのが実際のところだ。
そして禁煙を目指すお父様方に人気だったパイポが示しているように、タール抜きの煙が出る様と変な味で自分を誤魔化すことでお父様方は”業”から解き放たれてきた。
興味深いことに、煙を見るために人は煙草を吸っている可能性がここでにわかに浮上してきたのである。
自分が吐き出した煙がどこにいくのか。くぐもった頭が捉えられる思考はせいぜいその程度だ。その間じゅうマイルドで適度な強度の哲学的問いに浸っていられる。
そんな思索の中に残念ながら火の気配はどこにもない。
そこにあるのは煙と霧の掛かった頭と、雨の降っている目の前の二車線道路を照らすヘッドライトの潤んだ赤色くらいのものなのだ。

2017/5/17

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