「信頼できない語り手から学ぶこと」
この夏、釜ヶ崎=西成=あいりん地区について調べることになり、集中的に通う日々が続いている。
訪れたことのない、ある新しい街に入って、その街独自のルールをイチから覚えながら、その街に暮らす人々のそれぞれの立場から見える「街の像」を外部すなわち「ヨソモノ」の視点から描き出すこと。
その難しさを今年もひしひしと感じている。

昨年の夏は鹿児島県長島町で町が後援するドキュメンタリー制作ワークショップ、2年前の冬は京都の限界集落に暮らす方々のお話を数日間に渡って伺い、それ以外にも個人的に旅行で訪れた鹿児島の離島硫黄島などでも同じようなことを行なってきた。話を聞くという意味では、呑み屋でのバイト中は6割以上がそのことに神経が費やされる。彼ら彼女らは私たちが聞いていないように見えながら、実は話を聞いていたということに「無上の喜びを感じる」人々なのだ。
これはあくまで結果として、と云うのか、面白そうな方向に嗅覚を働かせてきた結果と云うべきなのか、今思えば、私は大学を通して全く知らない街に出かけてその土地のひとの話を聞くことを続けてきた。そしてその体験を必ず文章や写真、映像に残してきた。
そうした体験は慣れによって円滑に進む部分―例えばストリート色の強い一見強面の方に初めて話を伺う時は眼を一瞬たりとも離さずに話すことである一定の初期の信頼は得られるとか―は体得できるのかもしれないが、やはり慣れないことが殆どである。
たとえば、取材相手の話の真贋を少ない予備知識から判断すること。
知らない土地に行って、その地で初めて出会った人や、ヨソモノの私たちをコミュニティの中に引き込んでくれる人(ゲートキーパー)の話に我々は縋り、信じやすくなってしまう傾向性がある。
その人が親切であればあるほど、私たちヨソモノの脳はその方の持つ視座に冒されていく。それはもちろん、私たちの街に対する理解が偏りを帯びていくことを意味している。
そしてその初期にこびりついてしまった偏りを解きほぐすことは本当に困難なのだ。
西成は多くの街がそうであるように、あるいは多くの街よりも過剰に、街のウチソトの境界が現出されている。
この夏、初めて訪れた西成で最初に出会った方は、非常に複雑な内面をお持ちの方だった。
西成という異境、を想像していた私は意外にも親切そうに話しかけてきた、その男性の話(殆どがご自身の過去に関する自慢話)を最初の3分間は真剣に楽しく伺っていた。
だが3分を越えた辺りから、この人の話には信憑性がない、もっといえばホラ吹き、だと直感した。私がもしそれらの自慢話を真に受け止めてしまうなら、その男性はこのコントに登場する堤下みたいな経歴の持ち主になってしまうのだから。
と同時に、これは厄介なことになった、と私は感じ始めていた。
巷で流行の”You Tuberカズヨ”と同じく、恐ろしく魅力的なストーリーをでっち上げて話す故に惹きつけられ、そして全てが嘘/誇張ではなく、話の中に真実も少なからず含まれている、という点が厄介なのだ。
西成で偶然最初に出会った男性も、松居一代にも、嘘をついたり話を創作したりする際、悪意のようなものは実はさほどないのではないかと思う。
それが病によるものである、と結論付けてしまうと、私たちは楽なのだが、なかなかそう割り切れない自分もいる。
知らない土地に出かけてあらゆる立場/階層/年代の人から話を聞いていると、それぞれのひとから全く異なった、到底両立のできそうにない複数の視点を同時に手にすることがある。
その際にそれは本当に、その人の立場だけがそうさせるのかと考えてしまう。
恐らくその方が生育した環境が常識を作っている部分は少なくないだろうし、きっと本当にそう固く信じているというより、縋るようにして自分にある考えを馴染ませようと信じ込ませている、のかもしれない。
時に人は、合理的ではない方法を選んで、現実に背を向け、本当の感情に蓋をしてしまうことによって自己の人生を辛うじて肯定することで生き延びることを選ぶことがある。(受験に失敗した経験をお持ちの方だったら、何らかの形で第2・3…希望の大学を肯定しなければ生きていけない、もしくは相当程度に生き辛くなると感じておられるはずだ)
その意味において、今回の西成の街で調べようとしているテーマからズレてしまうのだが、なぜ最初に出会った男性は本当のことに織り交ぜて嘘を織り交ぜて話すことでしか私たちに向き合えなかったのだろうか、とどうしても気になってしまう。
嘘をつくことが、西成の街で生き抜く知恵だったのかもしれないし、実際男性と話している間、多くの西成の労働者たちは彼に挨拶をして通り過ぎていったこともまた紛れもない事実なのである。
映画『バードマン』に登場する過去の人気の出た役に病的に執着する中年俳優が劇中後半で立て続けに起こした数々の奇跡を嘘っぱちだと断じられない、のと同様に。
彼は虚言症を患っており、私たちと異なる人種だ、と断じるストーリーの立て方は私たちにとって飲み込みやすい類の話だ。
飲み込みやすさを避けようとするあまり、飲み込みにくい複雑な説明の仕方を好むこともまた同じように、時々刻々と色を変える不定形の「真実のようなもの」から同程度に遠ざかる、ヨソモノによる勝手な見立てに基づくアプローチである。
そんな答えの出ない問いにぶつかった時に、この言葉を思い出すようにしている。
この言葉を紡いでいるのはどんな奴で、どんな考え方をする「クセ」をもった奴なのか。どんなモノの見方をしているのか。それゆえにどのような結論を下したか。それらを読者・観衆の前で詳らかにせよ。
この夏はしばらく底なし沼から何かを引っ張り出してくるような手探りが続きそうだ。
2017/8/9
