「思考はリズムとともに現実界へ発射される」

”漫才は己のリズムを知ることから始まる”

芸人養成所での講演の中で、そう語ったのは、2011年に芸能界を引退した島田紳助であった。
ちょっといい言葉だなと思った。


殆どといっていいくらいに、島田紳助には興味がなかった、いや持とうとしていなかった、いや正直に云うと好きじゃなかった。
それにはいくつかの理由が考えられるのだけれども、最大の理由は両親が嫌っていたことに影響されていたように思う。

亀田一家と島田紳助の出る番組が映っていると、彼が画面から消えるまでチャンネルが変えられ続ける。
彼らが画面に現れ続ける限り、我が家では恐らく海外ドラマ配信チャンネルまでリモコンの連打が行なわれていたに違いない。もちろんテレビの電源を消すという選択は両親の頭の中にはいつもなかったのだが。

彼の粗野な語り口はそもそも好きになれなかった。そんなわけで島田紳助ヌキの世界に私は追いやられていた。どこかに島田紳助を礼賛する類型の人間が嫌だと浅く考えていただけだったのかもしれない。


きっかけはYou Tubeだった。
早々と夏にバテ、聴きたい音楽も見当たらず、夜に缶ビールを買いに出かけたいのを必死に我慢し、同じような動画を毎日風呂場で流すのにも飽きてきたころに、島田紳助について調べてみようと思ったのだった。

島田紳助を見ていて分かってきたことは、歯切れのいい視聴者をスカッとさせる喋り方もさることながら、類まれな要約力が彼の人気を(時にはその乱暴な単純化が知性に欠けるとして不人気にも作用するが)支えているということだ。


そんな彼は要約のダメ押しとして、たとえ話を話に放り込むことがしばしばある。

”漫才は己のリズムを知ることから始まる”

あえてテンポという陳腐な言葉を使わず、音楽を思わせる”リズム”という語を用いたところに、不思議な説得力が生まれる。

リズム、声の調子の高低すなわち音程こそが笑いの本質だと彼は語る。
20代前半から彼はあらゆる喋り達者の語りをレコーダーに録音して何度も聴き、分析を重ね、独自の「漫才の教科書」を作っていたのだという。

好き嫌い、彼の功罪に関わらず、理論などなかった笑いに関する教科書を独学で作る姿勢を心底尊敬した。

リズムや音程の感覚は天性のものであると同時に、その感覚は歩きながら話しても、走りながら話しても一定に維持できるようなものを指すらしい。
言い換えるのも野暮だが、脚の動くリズムと心臓の刻むリズム/ビート、そして口から発せられる言葉のリズム、すなわちマルチチャンネルのポリリズムを管理できるかどうかが、笑いの質をどうしようもなく左右するのだということだ。

話すことはエネルギーを要する。ましてや人を笑わせたり、納得させるならばそのエネルギーは膨大だ。
体内から出たがっている言葉/思考を外に出す際に生じる音声言語への変換エネルギーに着目した時、云いたいことが言葉にならないことの謎が解明されそうな気がする。

リズムが単一だったり、身体の使い方が一方向にしか動かなかったならば、きっとそこに変化や魅力はつけられないのかもしれない。

それが、問題多き島田紳助から時間差で受け取ったアイデアである。

2017/7/9

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