「衆人環視ならぬ友人監視」
社会学部棟あたりでは手垢の付きまくったキーワードの1つに”パノプティコン”がある。
ベンサムが刑務所のモデルとして考え、フーコーが現代社会(もうすでに古い議論だともされるが)の比喩として用いた言葉である。
どのようなモデルなのか?
人が見てないところだったら赤信号の横断歩道を渡っちゃう私たち。
そんな私たちに向かっていくら、赤信号で横断するのは道徳的に誤っています、とか倫理的に問題がある、と云ったところで、その行為はやめられないだろう。
でも、小さな子どもがこっそりと私が赤信号を渡っていくのを見てるかもしれない、と思ったり、感じさせるような環境があれば、赤信号で渡る行為は減るに違いない。
つまりここで重要な点は、「見られている」からなのではなく「見られているかもしれない」という恐怖が結果として望ましい行為を導いているということだ。
パノプティコンの考え方が応用された刑務所では、光学的効果を総動員することによって、囚人から看守や他の囚人は見ることができない、だが看守から全ての囚人が見渡せる、そのような設計を可能にしている。
ここまでが誰かに見られているかもしれない、という神経症にも似た恐怖に関する前提である。
ここからは今日の本題、「衆人環視ならぬ友人監視」についての話を進めたい。
環視と監視、洒落を云っている訳ではないが、この言葉の違いからまずは説明したいと思う。
SNSは環視/監視の両面の働きが機能している場所だと考える。
環視は多くの人が言うなれば遠巻きにある出来事や人物の様子を眺めている状態。
そして監視とは、誰か(友人かもしれないし見ず知らずの変質者、あるいは国家かもしれない)があなたの一挙一動を注視している様子をここでは指す。
SNSにおいて私たちは通常、環視のような、弱い意味での「見られている」を意識しているが、その甘い意識から飛び出した言葉が時に思わぬ「監視」にさらされ、炎上を起こすことがある。
炎上とはSNSの持つ2つの機能「環視と監視」の温度差がもたらす反応だといえるだろう。
私が真剣に病んだり楽しんだりしてるTweetや投稿など誰も見てくれてないだろう、という虚無的な態度が、誰も見ているようで見てないだろうという「環視」のような意識を強め、誰かが私を見ているに違いないだろうという「監視」意識を弱める。
私たちはSNSのプレーヤーであり、観客/批評家でもある。
私たちの投稿した「リア充」チックな写真は、それまで緩慢な意識でタイムラインを繰っていた観客/批評家の「環視」を、即座に「監視」モードに移行させ批評を始めさせる。
私たちは観客/批評家の眼差しをもってプレーヤーたろうとするが、どれだけ努力しても揚げ足は取られる。
「いいね乞食」というグロテスクなワーディングは、その揚げ足取りの最終形態と云えるだろう。
いいねを貰うためならば、身体を張ろうとする心性。
いいねを貰いやすい時間に投稿ボタンを押し、いいねを押されやすいトピックで、いいねを頂きやすい角度の写真、いいねを貰えるくらいに嫌みのないリア充アピールをする私たち。
あらゆるネットワーク上での価値(ネット上での人脈、時間など)が通貨に置き換えられる昨今にあって、もはや「いいね乞食」の私たちがフィールドとするバーチャル空間のネット上における価値もいよいよ通貨になるのだから、決してネガティブな意味で捉えられなくなりつつあるのかもしれない。
だが、ここで1つ告白しておくと、私は高校生の頃に友人に云われた「いいね乞食みたいやな、おまえ」という言葉がパノプティコンとなって、彼の発言を未だに引きずっている自分がいる。
投稿ボタン、あるいはpublishボタンを押す前に彼の言葉を忖度してから、未だに発信し続けているところがどうしてもあるのである。
これは私の内面の「監視」材料として5年を経ても尚、作動している。
2017/7/21
