「あいつと俺が友達の不思議さ」

何でもかんでもそもそも論に戻って、「〜ってどういう意味でしたっけ?」を連発していると馬鹿みたいなのだが、書いてる人間、私が馬鹿なので、「あたりまえ手帖」というpublicationをここで続けている。

きょうは「友達」について考えてみたい。


思えば友達とは危ういバランス感覚の上に成り立つ必然性と偶然性が混合された関係性だ。

これを読んでいるみなさんにも友達は何人かいると思う。長い付き合いの友達もいれば、最近気の合い始めた友達も。

長く付き合うほどその関係は必然性があるように思えてくるだろうし、最近付き合い始めた友達に対しては偶然性を感じるようにできている。

友人は契約によって成り立つわけではない。書面にサインをしなくとも、一緒にいるだけでいいし、どちらかが勝手に友達だと思ってるだけですら成り立ってしまう関係、それが友達だ。

友達と恋人の境界。それは永遠のテーマの1つ。両者ともに公的記録に残らない、RADWIMPSじゃないが ”気まぐれのような、風が吹けば散らばっちゃう” 関係だから、拘束力もなく、その気になれば本気で走って逃げて冥王星あたりまで辿り着けるだろうし、SNSでブロックすれば隣の島宇宙に避難できる、それくらいのものだ。もちろんお見合いサービスを使って出会った恋人同士なら、公的記録には残っているかもしれないが。

いずれにせよ、法的拘束力のない関係は必然だと胡座をかいて、亭主関白みたいな態度でいるわけにはいかないデリケートなものだ。


なんでこんなことを思ったのか。

1人でバスに乗っていた時に、電車に乗っていた時、街を歩いていた時、友達らしき2人組を見てると、どうしてこの2人は友達になれたのだろうかと不思議に思えたのだ。

大して喋りが上手なわけではない。どちらかといえば話は盛ってるようなところがあるし、顔もムスッとして不機嫌そうだし。知的な話題もない。

どうしてこんな冴えない中途半端な奴と…

こんなやつとおって楽しいんやろか?

なーんてことを思ってしまったのだ。誰かの恋人を見る時に感じることを、誰かの友達に対してもふと感じたのだ。

何が冴えてるを意味するのかは分からないが、少なくとも私も馬鹿だし、ボーリングもダーツにも行きたがらずビリヤードだけ行きたがり、禁酒中で、偏屈な、こだわりの強そうな、こんな人間と友達でいてくれる人たちは本当に凄いものだなと思った。

人間の才気は平等ではないが、それぞれの才気に合わせて友達がちゃんといてくれる、あるいは割り当てられている、その幸運さよ。

感情に流されれば寿命を縮める。俺が貫いてきた主義だが、主義に凝り固まればソビエトも地図から消える。
持つべきは友なり。

なんやかんや最も好きな邦画の1つかもしれない映画『探偵はBARにいる』のセリフを午後の穏やかな海の中に思い出していた。

2017/7/14

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