「シュールな異国の風景の避け難さ」

2年前の晩夏、トロントにいた。
9月から12月までの4ヶ月を家を離れて暮らすことができる、その間日本にある人間関係とは異なる関係性の中で生きていける、ただそれだけで胸が躍った。
20年近く暮らしたまちや人間関係から一度距離を置いてみることによって、凝り固まった状況のリセットを図る必要が当時あった。そういった意味でもあの4ヶ月間は私にとって掛け替えのない時間だった。


自分という状況、大げさに言えば「日本という状況」から足を洗うために、日本語を用いた音楽や書籍は留学中、一切触れないようにそれ相応の努力をした。なるべく新しい体験、音楽、映画、小説に身を置くための唯一のルールだった。

思い出深かったのはトロントで読んだいくつかの本だ。
行きつけの古本屋をいくつか見つけ、大学付属のSF映画に出てくる要塞みたいに巨大な図書館で本を買ったり借りることがあった。

日本語以外で書かれた本のみで天井まで埋め尽くされた書棚を見上げるたびに、ああ自分はなんと小さな井戸から世界を見上げていたのだろうか、と嘆息したものである。

その書棚から1冊を取り出し、自分の拙い英語力でこの本を最後まで読み通せるだろうかと考える。
試しにページを開いて読んでみる。知っている単語が多いし、内容がどことなく哲学的な雰囲気をまとった小説のようだし、コスト(なけなしの英語力を傾けて読む時間と労力)に見合ったパフォーマンス(難しい本を読み通し新たな知を手にすることができたという達成感)が得られるはずだ、つまり「コスパ」のいい本だと考えた私はその本をレジに持って行って$5.66を支払い、夕暮れを見上げながらゆっくり歩きながら家へ帰って行く。

夜、買ってきた本を手に取ってページをめくり始める。
少し疲れているせいか集中が続かない。本を閉じ、ライトを消して、学校に行く朝の電車内で読んでみよう、そう思い眼を瞑る。

翌朝、いつもより時間に余裕をもって、終着駅の1つ手前の最寄駅から出る人のまばらな列車に揺られながら、本を開く。
マラソンランナーを主人公にした小説だとあらすじには書いてあったが、本文が理解できない。
もっと英語を勉強してから読めばスイスイ読めるようになるのか、と思って数週間後、再度チャレンジするが同じような結果に終わる。
違う本で試したが、駄目だった。

私は結局トロントで1冊の本もろくに読み終えられないまま、ビールばかり飲んでいた4ヶ月の留学を終え帰国することになった。


どうしてだろうか、と2年前の失敗を思い返す。
そしてこのような結論に至った。

私はどうやら日本語に対して抱くような言語に対する自信がなければ、書かれていることを「ありのまま」の事柄としてきっと理解できない、のだと。

トロントで読もうとした本や、殆どの人の話は、とても本当の話に思えなかったのだ。
それは彼ら彼女らが突飛な話ばかりを私に聞かせていたからではない。

私は自分が思っていた以上に、大雑把に話を聞いたり読んだりすることができない人間のようなのだ。
だから、自信のない言語を使う時、全ての内容に対して100%の確証を持てず、話や風景そのものがシュールで奇妙に見えてしまっていたのかもしれない。

いくらトロントで英語を使って新しいことを学んだところで、これは全てフィクションの中で起きていることなのだろう、私はその状況を覗き穴、あるいはスクリーン越しに見物している疎外された「観客」なのだろう、という実感にしかならなかったのかもしれない。

国際化に向かうフェーズさえ越え国際化の只中にいるこのご時世に、時流に逆行したことを云うのも憚られるが、どうやら私たち(ここで用いた私たち、という語は必ずしも広範で多様な日本人全般を指すものではない)はあまりにも、そして過剰に、使い慣れた言語の上にあぐらをかいて生活しているがゆえに、自国外の文化を消費する時、多かれ少なかれ「翻訳」を必要とするのだ、と。

ジム・ジャームッシュ久々の最新作の映画『パターソン』の中で誰かが確かこんなことを言っていたが、翻訳は作品の魂を殺す、という言葉の通りなのかもしれない。

中央を自認する日本の特定の人間たちが異国、辺境の民と接する度に、コミュニケーションの限界を感じてきたのは古来より続いてきた感慨なのだろう。

他者とコミュニケーションを取る際に付帯する、あらゆる情感の他者への共有不可能性にまで続く、手垢にまみれた「他者と自己」の断絶、男と女という永久の命題に映画という文法を用いて挑み続けているゴダール、自然や世界とすらも切り離された私という疎外論へ。

このように広げ過ぎた風呂敷を畳む最後の一言は次のようなものだ。

それでも私たちは翻訳された魂が骨抜きにされた異国の言説に触れねばならず、日本語の体系の中をチビチビと味わなければならないのかもしれない。

2017/8/30

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