「2件のCM炎上事案に怒りを感じていらっしゃる皆様へ」

サントリービールのCM、宮城県PR動画の炎上が相次いだ。
そのどちらにも「エロ」が含まれているために、ケシカラン。
そのような批判を受けている。
こうした炎上は近年、意図せずに起こってしまったイノセントな事故では決してなく、「炎上マーケティング」と呼び馴らされていることは、ちょっと物識りな猫でも知っていることだろう。

炎上を起こすことによって、平板化した無数の話題の中で世間の耳目を集めることができ、結果としてビジネスになる。
特に今回の場合、宮城県知事がPR動画を承認し、注目を集めるためなら問題がないと考えている、と答えたことの「倫理性」に関しても問題となっている。

こうした炎上マーケティングを巡る一連の問題の推移も、私たちにとっては日常と化しつつあり、今さら大真面目に取り上げて喧々諤々、唾を飛ばし合う必要があるのかが非常に疑問だ。

今から述べる私なりのアイデアの支柱は、多かれ少なかれ既に誰かによって語られている類のものであることをご了承いただきたく思う。

もしある程度のオリジナリティが私にあるとすれば、53年前のスタンリーキューブリックの作品を使ってエロの不謹慎さを説明しようとしている点だろうか。


まずどちらのCMにおいても共通して云えることは、映像がエロチックな想像を喚起しているために、不健全で、女性を性の道具として見ており/扱っており、男性に媚びすぎた表現であるという批判の存在だ。

私は今回の2つのCMには「巧妙さ」を感じなかった。
多少の色情は喚起されるであろうことは理解できるし、女性差別の発想が見受けられることはおかしいと思う。

だがこの作品には明らかに「センス」がなかった。
うわ、やられた。思いがけず欲情してしまった。くそ、倫理的にまずいだろうけど、これはうまいCMだ。
そんな感情が浮かんでこなかった。
そして、そんな感情も浮かんでこないくらいに巧妙な映像は恐らくいくつもあるだろう。(サブリミナル効果を思い出して頂きたい)
ああ、またそういうのか。こんなの松坂桃李あたりが女性をキュンキュン云わせてる凡百の企業CM水準とどう違うのか、と思った。


私はこう思う。
消費者が企業(ある望ましい消費行動を喚起する団体)にコントロールされている、と思うから、今回のような騒動になるのだと思う。

消費者と企業は対等だ。
少なくともそう信じていないと、自分を人間以下の動物だと認めることになってしまう。嘘でもそう信じていないと、虚無感に襲われ、集団自殺者があとを絶たなくなるだろう。
企業は動物的な欲望をあらゆる手法で喚起しようとしてくる。
それを目利きし、欲望をくすぐられても、理性という自制心を発動して、企業からの誘惑をやり過ごす時、消費者と企業は対等でいられる。

あなたが、企業のやり口に乗っかって、企業の望む消費をしてしまった時、あなたは企業の巧さに負けてしまったに過ぎない。ただそれだけだ。ちょっと心が弱っていただけかもしれないし、あなたが誘惑に弱い人間だったか、最初から買いたいと思っていたか、そのどれかだ。

その勝負を捨て、私たちが無力な動物だとすんなり認め、巨神兵の足元に縋り、揚げ足を何度も何度も取り続ける世界を私は健全だとも思わないし、そんな世界を微塵も望んでいない。

その限りにおいて、今回のCMにはセンスがなかった、と私は云い切れる。
そうやって消費行動を見送り、奴らの誘いをやり過ごすことが出来る。


では、何のセンスがよくて、何のセンスが悪いのか。

センスなど究極的な主観判断であるため、一般化できないし、一般化する気も更々ないが、キューブリックの映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』にセンスをどうしようもなく感じてきた。

米ソの核戦争の緊張感をシニカルな態度で描いた、アイロニーとメタファーに満ちた作品だ。
小学校と中学の狭間に初めて観て以来、これが「優れたアイロニー」だと信じてきた。

核爆弾を搭載した米軍の戦闘機に乗るパイロットは、開拓者精神旺盛なカウボーイ的人種である。
プレイボーイ誌を飛行中にパイロット席で読み耽り、いざ爆撃の指令が基地から出されると(作中でこの指令は、ある精神に異常を来した司令官が妄想に取りつかれて、独断によって核攻撃を命じたことが明らかになるのだが)カウボーイハットを被り、マシントラブルで格納庫から爆弾を落とせなくなった際は、核爆弾の上に男は跨り、まるで獰猛なバッファローに騎乗する騎手のように身を挺して核爆弾とともに男も投下されるのである。

https://stat.ameba.jp/user_images/20150807/08/451skibaka7440/47/48/j/o0787057413388417484.jpg?caw=800

注目すべきは、このパイロットが跨る核爆弾が、彼の男根をアイロニカルに、そして露骨に表現している点である。

もしくは登場するナチ政権から亡命したドイツ出身のアメリカ人科学者「博士」がナチス式敬礼を思いがけずしてしまうシーン。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51M40B2PVEL._SY445_.jpg

この映画を観た観客に聴けば分かる。
誰が、これらのアイロニーを非難し、こんなものは不適切だと云ったというのか。
文脈に沿って、計算しつくされたキューブリックの映像表現を前にした時、ただひれ伏すしかない。辛うじて最後の力を振り絞って、彼を神と呼びかけるか、馬鹿げた映画だと発狂するくらいしか観客に選択肢はない。

それが私が、この恐ろしくタイトルの長い映画を支持し、冒頭の2つのCMに何とも感じなかった根拠である。


巧いものには黙って負けを認めるしかない。
だが、巧くないものは黙って見過ごせばいいだけだ。
悔しさを感じたり、あれは倫理的(そもそも倫理とやらもニーチェが既に弱者の仮面を被った者たちによる価値転倒から生まれたものであることを明らかにしている)に間違ってる、こういうCMが嫌いだとか、云う時、あなたはその対象物に対して愛を感じており、優れたものだと認めていることになる。

本当に巧みな性表現だったのなら私たちは負けをさっさと認めて、不買運動なり、電通陰謀説を唱えるなどして注意喚起を行なえばいいだろう。
あんな見え透いたもの、放っておけばいい。
それがクリエイター及びクライアントたちに付ける一番の薬なのではないだろうか。

2017/7/12

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