そう、私は何度かここで既に書いたことがあるが、高校時代、生徒会の副会長や書記を務めていた。
そして何よりも、高校3年時、生徒会長選挙に出馬したが、対抗馬の後輩に敗れた過去を持つ。
高校2年時は、副会長選挙に出馬し、候補者が私のみだったためごくごく形式的な信任投票を行なうことになったのだが、私は一度落選し、その後すぐに行なわれた再選挙の結果、なぜか僅差で信任を得て副会長となった人間である。
ここまでざっと書いてみたが、このような経験をお持ちの方は稀ではないだろうか。ドクター中松、マック赤坂、又吉イエスばりの落選を高校のうちに既に繰り返し、彼らとの違いがあるとするなら、それでも政治活動を続けていたことだろうか。ナルシズムを全開にして書くなら、落選に関して非常に早熟な少年だった、そう云えるだろう。
早熟だったのは、選挙に関してだけではない。18歳を迎える前に耳にしたあらゆる野次の数は、同世代の平均値を大きく越えていたはずだ。そのような意味で、私は人が群衆にしか見えなかった数少ない高校生でもあったはずだ。
今でこそ、SNS上での心無い誹謗中傷に通知が鳴り止まないというプチ有名人気分を味わった方も少なくないかもしれない。
これはあくまで「今思えば」なのだが、SNS上での炎上と非常に類似した現象を、スマホすら持っていなかった高校生の私は、演壇の上でそれを経験していたのだ、と。
帰れ〜、ひっこめ〜、はよ話終われ〜、などという野次は、憎悪・恐怖などを通り越して愛しくすら思える。
言葉は意味を骨抜きにして「単なる記号」に還元することでやり過ごせたが、何よりも辛かった群衆行動は、意外や意外「拍手」だった。
通常、拍手はポジティブな意を示す際に、聴衆が発表者に向けて送るサインとして用いられる。そしてそれは通常、発表者の話が終わる際に送られる。
だがその拍手が、突如として、話の途中で、何の脈略もなく襲いかかって来たらどうだろうか。それはポジティブな意味が転倒し、ネガティヴな、すなわち〈早く話を終えろ〉の意に転じる。
ここからが佳境、という話の途中で繰り出される拍手は想像するだけでもゾッとする。
この話には明確な終わりがある。
1つ年下の後輩に壇上に立つ私を口汚く野次っていた人間がいた。恐らく私に何の恨みもなく、集団としての面白さに寄与していただけに過ぎないのだろう。野次っていると気持ちが良いだろうし。
そんな負のイメージを持った後輩と先日初めてまともに会話を交わし、しかも少なからぬ友情のようなものすら感じた。気が合うのか一緒に飲みに行ったりもした。
その後輩の豹変を思い出す度に、歳月の移ろいは激しく、人は今のままではいられないものか、と嘆息したものである。
2017/8/28

