「ぼくのほくろと日本の地震」

震災は1995年。
震災は2011年。
生まれたのは1995年。
高校に入学は2011年。

2つの震災は私の近くで起きたはず、でも気付けば片付いてしまっているようなところがあった。
1歳の私はもういないが、1歳以前からあった左足の大きなほくろは残っている。
その印が私の連続性を辛うじて担保している。
思うに、震災に見舞われた2つの街にもいくつもの印が刻まれている。


私のほくろについてもう少し話をさせてほしい。
つまり、2つの街に残された印についても、同様に話を続けさせてほしい。

20歳を迎える前に、皮膚科で左足のほくろを診てもらった。
ご存知かどうか、ほくろは腫瘍になりうる可能性をもった黒点であり、除去を行うかどうかを成人までに専門医に判断してもらわなければならない。
もちろん、悪性の腫瘍でないならばそのまま残しておいてよいのだが、黒点が大きくなったり、輪郭がぼやけてきた場合には、腫瘍である可能性が高く手術をして取り除くことが望ましい。
たいていのほくろは手術によって除去する、もしくは成人までに自然消滅する。たしかに私のもう1つのほくろ、左足の膝の皿あたりの小さな点は自然消滅していった。

医師の判断は、もうしばらく様子を見ましょうとのことだった。
もちろん、将来的な除去を視野に入れて、だ。

左足に刻まれた黒い点、震災以後を生きる2つの街に残る印。
そのどちらも、すなわち、ほくろも海も自然も文明も、そのどれもが悪性なのかどうか分からずただ突っ立っているだけなのだ。


震災に見舞われた東北を訪れたことが3回ある。
2013年、2014年、そして2016年。

2013年、2014年。
仙台石巻を中心に僅かばかりのボランティアに参加した。
確か沿岸部の田畑で雑草抜きのような作業をしていたのだと思う。
あれは夏で暑かった。
淡々と抜く草。そこが本当に波を被り、塩害によって耕作のできない土地なのだというリアリティが私にはうまく感じられなかった。
リアリティを埋めるため、何が起きたのか知りたくて、ボランティアの休憩中、海に向かって歩いた。
人の背丈以上に伸びきった草をいくつも掻き分けて。

海は確かにあった。
あの時、崇高という言葉を知らなかったのだけれど、人間が自然の猛威を前にした時に感じる畏怖、崇高を感じていた。
被災の印としての風景に美しさを感じ、綺麗だと表現してしまうことを高校生ながらに私は恐れていたのかもしれない。


2016年、秋田の酒蔵を訪れた。
学生ならではの貧乏旅行とあって、行き帰りの交通手段は鈍行。寝泊りの場所はカラオケボックス。
帰りは東京の友人と久々の再会を夜約束していたから、朝秋田を出て、東京に向かった。
長い電車だった。扉が開くたびに3月の冷気が運び込まれてくる。

その途中だった。確か水戸辺りまで帰ってきていた時、3時ごろだった。
このまま真っすぐ東京に向かうと約束の時間よりかなり早くついてしまう。
東京には行きたい本屋さんが山のようにあった。

でも、その時の私は、福島を訪れたいと思った。
自分の中で、福島、という言葉をどうにかして、地震、という言葉から引き剥がしてみたかった。
引き返してまた水戸から北上した。
北へ上るほどに空は雲に覆われ、私の心を不安にした。
不安な心のまま、私は終点がやってくるまで眠った。

目が覚めた。次の駅はいわきとアナウンスされていた。
終点はいわき。
私の友人の生家がそこにはある。
いわきに降り立つ。
本当に普通の駅だった。

私はいわきに常ならざる何かを見つけ出そうと、恐らく自分が持ちうる限りの五感を全力で駆動させたのだが、静かな田舎の駅にしか思えなかった。

そのことを確認した私は、反対側のホームへ渡り、来た道とは今度は逆方向へ南下していった。


私にとっての震災。
その殆どはイメージによるものだ。
直接被災された方々にとっての震災は、多かれ少なかれ身体性を帯びている。
私は2つの震災を事後的に体験し、想像し、想像し、危険な期待のようなものを時に抱えて歩き回ることしかできない。
海を見て、頭上の雑草を見上げて、空の青さの平凡さを見て、足元のほくろを見つめて、ただ昨日と今日、明日がギリギリ繋がっていることを確認することだけしか。

2017/6/22

Show your support

Clapping shows how much you appreciated Ryunosuke Honda’s story.