醤油味の付いたマグロを養殖するかを真剣に検討する、わたしたち

先日、「選曲者としてのミュージックプレーヤーの意志」について記事を書いたが、今回も引き続き、話題は音楽だ。


陳腐でつまらない日常
を、人生を、明るく照らしてくれる光。

映画『はじまりのうた』の中に登場する、才能と金が枯渇していた音楽プロデューサー「ダン」は、彼が全てのキャリアを賭けてプロデュースする、女性ミュージシャン「グレタ」に向かって、音楽の魔法について、こう言ってみせた。

「音楽は魔法だ。陳腐でつまらない景色が美しく輝く真珠になる」

夜のニューヨークの街を行き交う人たちの光景を見ながら、年老いた人間と若さの絶頂を超えようとする人間、男と女、プロデューサーとアーティスト、の2人は、それぞれが忘れられない思い出の曲をミュージックプレーヤーで流し合う。

クラブの大音量で流れるエレクトロミュージックの中ですら、2人は2人だけの世界の中で流れる同一の音楽でステップを刻む。

二股にケーブルが分かれたダブルイヤホンを付けて、2人は同じ曲で同じリズムを刻み、同じ眼に映る景色を共有する、そんなシーンだからこそ、先ほどの言葉は、より胸に響く。


音楽や本は
あまりにも自由に持ち出せるようになった。

陳腐でつまらない日常、陳腐でつまらない人生、を引き受けられない弱い私たちは、音楽に頼り、文学に頼り、映画に頼ることで、光を掴む。

同じ音をテクノロジーの力で、より占有され密閉された状況の中で楽しむことができ、その情景はまことに美しい。

その美しさは、この作品において存分に描かれ、心を打つ。

だが一方で、わたしたちは目の前に鮮度100%のナマモノとして広がる情報に、加工物としての音楽を流さなければ、ドラマチックにならないという強迫観念に縛られているのではないのだろうか。

音楽を楽しみとして聞いている、のは当然だが、音楽や本はあまりにも自由に持ち出せるようになった。

余所行きの一張羅で出かけ鑑賞したオペラハウスでの長時間に及ぶ上演をじっくり観ることが出来る有閑階級の楽しみとしての、音楽が。

長編小説を読むだけの知的/時間的余力を持った人々が、戸外に出られない長い冬に、家の中で読み進めた物語としての、本が。

あらゆる文化は情報化され、家の中のターンテーブルの上にドーナツ盤を載せずとも、音楽は楽しめるようになり、本も内容が短い時間でも読めるように数々の工夫がなされて、通勤・通学時間の合間でもまとまりごとに読めるようになっている。

劇的な非日常から、劇的な非日常を繋ぐための、音楽や本によるまやかしの様な癒しや救いに頼り過ぎているのかもしれない。


殆どの人は
ある種の編集者/映画監督となった。

アルバムから切り貼りを行ない再構成を行なった完璧なプレイリストのままに好きな曲だけ、好きな瞬間に好きな空気に差し掛かった絶妙なタイミングに鳴り始めるメロディは、現実をフィクションとしての映画のようにしている。

地上に住まう全員が、自分の好きな状況をあっという間に再現することに逃げ込むことができ、自分の理想とする欲望のままに、景色、音、人の動きをコントロールできるようにしたいと思うことによって、殆どの人はある種の編集者/映画監督となった。

自分の人生のオーナーが自分であれるようになった、ことは豊かなことなのかもしれない。

この記事の終わりに、たまにはイヤホンを外しましょう、とか、人との予測不能なコミュニケーションを楽しみましょう、だとかそんな学級委員みたいなことは云うまい。

ただ、音楽も活字も何もない、裸の景色にはもう価値がなくなってしまったのだろうか。

ニューヨークという「クソ」な街を再確認するために、『はじまりのうた』のように街と音楽を掛け合わせることによって、やはり私たちは音楽を欲望し続けなければならないのだろうか?

マリアージュ、流行りの言葉でよい意味に使われることが殆どだが、もしかしたら音楽と街の掛け合わせで前時代にはとんでもないとされたキメラ生物を作ろうとしていることに、私も含め無自覚なのかもしれない。

この問いはある時期まで、まるで、水揚げされた時から醤油味の付いたマグロを養殖するかを真剣に検討している、そんなことだったのかもしれない。

ふと好きな音楽の行方が心配になった。

2016/11/1

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