「狂者になった日」

いつの間にか、自分が異邦人になっていた。
これほどに恐ろしいことがあるだろうか。

カフカ『変身』は、ある意味において、カリカチュアライズされているとしても、そのような突如として突き付けられる事実は、あらゆる作品において盛んに描かれている。

ハインライン『夏への扉』で、数十年のコールドスリープを経た後に、病室で蘇生される男が、目にする極度に清潔な2000年の世界との対峙。

手塚治虫は『火の鳥』の中でしつこく永遠、不死などいったテーマに向き合ってきた。
「ヤマト篇」の主人公、王族の子息として生まれたヤマトオグナは、王君の死去に際して、民が古墳建設の為に人柱として犠牲にされる風習に非合理性を感じ取り、彼の近代的ともいえる自我によって、因習的な悪しき慣習への改革を推し進めようとする際にも、「放蕩息子」として異邦人化される。
さらには2482年が舞台の「復活篇」においては、少年レオナはエアカーから墜落し一度死亡するものの、科学の進歩により生き返る。
だが代わりに、彼の脳は手術の影響もあって、有機物と無機物の認識が反転していしまい(つまりは人間は無機物に、ロボットが人間っぽく見える)そのために人間社会から脱輪し疎外されていく。


断絶なく続いていると思っていた自分の「普通」がある日突然、身に覚えのない車線変更によって、「狂気」というレッテルを貼られ、周囲から「治療」を受ける。

今季の朝ドラ『べっぴんさん』も最近、同じようなストーリー展開へと進んでいこうとしている。

先に断わりを入れておくと、私の朝ドラ視聴はかなりいい加減なもので、母が録画したものを家で夕食を摂る日だけ、夕食時に(母は朝ドラを夕食時に必ず観る、朝観ているところはあまりお目にかかったことがない)考え事をしながら、母が録画再生しているのを、散漫な注意力で観ているだけだ。
ある忙しかった週などは、全く見ていなかったため、久しぶりに夕食を口に運びながら観ていると、ストーリーが進み過ぎていることもある。
もちろん、見逃した日のストーリーなど追いかけていないし、まずもって今回の朝ドラは大した魅力があるとも個人的には思えない。

まぁいい加減な斜め観をしているような、朝ドラに興味もない奴が外野でいくら云っても無駄だが。

断片的知識を組み合わせると、主人公すみれの夫、紀夫は太平洋戦争へ出兵し、終戦を迎え、数年経っても戻ってこない。
すみれは自分で力強く生きていくことを決意し、何人かの女性たちと、ベビー用品を販売する小さな商店を営んでいる。(ご存知のように、主人公の営む店のモデルは、後のファミリアである)


そこにある日突然帰ってきた、紀夫は多くの人が戦死していたと思っていただけに、驚かれながらも、すみれをはじめたくさんの知人の労いを受ける。

物語の殆どは、すみれの視点でカメラは移動していたが、紀夫の帰還とともに、視点は紀夫へと移り、紀夫の心的/視覚認識を通じて、馴染みの人々が奇異に映し出される。

戦地で恐らく、人間の数々の暗部を目の当たりにした紀夫は、戦争という非常事態を経て、もはや健康な「普通な」青年ではなくなっていた。

店を開き、いきいきと働くすみれたち”女子供”の姿を見て、男が不在の世界に戻ってきて、旧来のさほど異常ではなかった「若く責任感ある家父長として」のキャラクターは、もはや不要とされているのではないか、と彼は感じ取り、彼を不安に内向的にさせる。
マチズモから遠そうに見える彼をしても、だ。

父権の失効は、米兵の袖に、にじり寄り「ギブミーチョコレート」と叫ぶ子どもたちに、最も強烈に象徴されている。(伝統的な敗戦国ニッポンの姿として、玉音放送にひれ伏す人々と並んで、オーソドックスな映像表現の題材と云えるのだが)

彼は恐らく、PTSDのような戦争の記憶を巡る苦しみにこれから向き合っていくのだろうが、ここで取り上げたい問題は、やはり「狂者」に近い存在とされ、心配され、元の紀夫へと戻そうと「思いやり」という治療的ノーマライゼーションを周囲の人々は、彼に向けていく。


朝ドラという健康的な物語類型の中では、恐らく、紀夫は戦地で染まった「病」をどのように克服し、明るい側の戦後イデオロギーへと回帰してこれるか、に収斂していくのだろうが。

物語において、もし病を克服できなければ、彼はすべからく病に倒れ記憶の美化を受けるか、狂者として隔離されることになる。

狂者の収容された精神病棟の、収容者にとってのある意味における世間から隔絶されることの「幸せ」は、園子温『愛のむきだし』、もしくは村上春樹『ノルウェイの森』においても描かれている。

狂者と健常者の境界とは一体なんぞや、フーコーの提出した議論をわたしたちは未だに考え続ける。

極度に分化し症例ごとに処方される医薬品もまた、病の個人所有感を高めているのだが、その倫理的不確かさは云うまでもなかろう。

異邦人性、外れ者性、狂者性、現実と作品世界、そして昨日と今日が地続きであることに、自覚的でありたいものだ。


それにしても、こんな文章、酒席にはお呼びではないのだろうか。

この間の酒席では、こんな文章を読みながらテキーラサンライズとともに、いつしか入眠していた、そんな状態を望んでいた。

だからまぁよいとする。

2016/11/22