「生まれた場所について最も無知である事実について」

私の生まれた街は捉えようによっては、呪われた街なのかもしれない。

全ての土地は何らかの意味付けが施されている。
その意味は様々で、吉から凶、善から悪、聖から邪まで、古代人も現代人もめいめい好き勝手に、土地に意味を付けている。

その意味から云って、全ての土地は、原理的に呪われも祝福されもしているはずで、私たちが土地に対して何らかのイメージを抱くのは、その土地が持つ「意味の積層」における表層をわずかに掬っただけに過ぎない。

その上で、私が生まれた場所”SUMA”(※)が多くの人が知る「2つの事件」によって、特別な意味が籠っているのかもしれない、という可能性について今回書いてみたいと思う。

ただし、お読み頂けると分かるように、非常に入り組んだ文章で、読み手を置いて行ったまま文が進められている箇所が多々ある。それでも今回、出生の地について書いたのは、かなり大切なことがその土地に込められているはずだ、という強い確信が私の中にあったからに他ならない。もちろん、それは現在のところ、私の知識が不足しているせいで言葉には十全にできていないのだが。
その点をご了承いただいた上で、お読み頂けると幸いである。

ちなみに現在は”SUMA”から転居してしまったが、いまだに何かの折を見つけて訪れるようにしている。


呪われた街と聞いて、最近配信の始まったデヴィッド・リンチによる伝説のドラマ『ツイン・ピークス』を思い出された方は、その想像力は直ちにしまって頂きたい。
なぜなら私が生まれた街に、残念ながら異世界は見当たらなかったし、常軌を逸した隣人たちもいなかった。

だがそこには少なくとも殺人があり、災害があった。

神戸連続児童殺傷事件、通称「酒鬼薔薇事件」の舞台となった場所は、私の学校の校区内にあった。

そして阪神淡路大震災。多くの死傷者を出し、特に”SUMA”の隣町長田区では火事による被害が酷く、地震そのものの揺れよりも、地震が引き起こした二次災害による死傷者を多数出してしまった。”SUMA”もまたその被害の例外ではなかった。

私はそのような場所で育った。
幸運だったか、不幸だったというべきか、私はそのような事件の痕跡を殆ど知らないまま過ごし、その地を去っていった。

阪神大震災は私の生まれる8か月前の1995年1月に発生し、酒鬼薔薇事件は1997年2月ごろから始まった。
私が家族とともに転居したのは、2008年のことだったので、2つの事件「後」10年以上をそこで暮らしたことになる。

だがその事実を全く自覚せずに暮らしていたのだ、小学生の頃の私は。
なぜだろうか。


その最大の理由は、2つの事件の痕跡が少年の私の前から入念に抹消されていたからだと考えている。

私が記憶している少年時代の街の景色は、学校の近くは大量の家々とミニコープが1軒しかない典型的なニュータウンの風景が広がっており、暮らしていたマンションはA~Hまで8つの棟があり、棟の名前はそれぞれの棟のアルファベットに因んだギリシャ神話に登場する神々の名を冠していた。たとえばHならヘラクレス、といったように。でもヘラクレス棟はそれほどヘラクレスらしさがあったわけでもなく、Aのアクエリアス棟と外見も中身も全く違いはなかった。

私が記憶する限り、その街は本当に退屈で平凡で、やけに清潔感ばかりが漂った要塞のような街だという印象を持っていた。

本田少年の印象はそう見当外れでもなかった。
未曾有の災害を経験し、日本中を騒がせた少年犯罪がすぐそこで、しかも2年間の間に立て続けに起こった場所であったことを、住人たちが忘れている、あるいは忘れたフリをしていたからである。

そして私もまたその”集団記憶喪失”とでも云うような症状に罹患していたのではないだろうか。


小学校ではもちろん震災に関する教育は受けたが、どれも隣町の長田区の被害がどれほど酷かったかについてばかりで、あとは震災を忘れないための歌を覚えさせられただけで、”SUMA”がどのように被災したのかを知らなかったのだ。
むしろ大人たちが、これは子どもたちに知らせない方がよいと判断して、街から震災の痕跡を消すことに対してそれなりに努力したのかもしれない。

もう1つの事件、酒鬼薔薇事件に関しては私たちの街では完全にタブーだった。
恐ろしいほどの報道陣が連日詰めかけたはずだ、それは事件現場から最も近くにある私が暮らしていた集合住宅地も例に漏れず、にだ。
そして私は自分の意志とはかけ離れた力によって、中学受験をした。
その結果、現在も通う中高大一貫校に入学し、転居した。
酒鬼薔薇が通い、事件現場にもなった中学に通うことはなかった。


このように2つの出来事はいわば忌まわしい出来事として、子どもが見ないで済むように大人によって完全にフィルタリングがされていた。

”SUMA”の大人たちは、私たち子どもが明確な自我を獲得する前に、佳きように図らってくれたのではないだろうか。

その漂白された場を今でも独りで訪れる。
別に何をするでもないのだが、きっとそこに何らかの意味と忘れてしまった記憶を探そうとしているのだと思う。

清潔感に充ちギリシャ神話の神々がモチーフとなった集合住宅地の中に災害の痕跡を探し出そうとし、あのセンセーショナルな事件現場となった中学校の前でじっと立ち、感じ考える。

だが、どれだけその場所にその凄惨な記憶に近づこうと努力しても撥ねつけられる。それは災後の石巻に訪れた際にも感じた疎外感と似ている。

あの何も知らず何を感じたのかを覚えていられなかったあの頃の私よりは、少しばかり色々な言葉や感覚を身につけたはずなのに、何も分からないのが悔しい。いつ訪れても、”SUMA”の人たちは他の地域の人たちと同じような顔をしている。

それらの総合的な事実が、いつまで経っても身体の内側に「子ども」っぽさを私に感じさせ、人との関係に疎外を感じさせる、「事後を生きる子ども」としての要因なのかもしれない。

2017/7/27

※文中で”SUMA”と英語大文字表記による表記を行なった理由は、わたしが須磨という土地を内面世界から描き出そうとする際、現実世界における須磨と、私にとっての”SUMA”を区別する必要があると感じたためである。