「桜の花言葉って知ってる?」
ちょうどひとひら散りかかってきた桜の花弁を目で追っていると、左隣の彼女が不意にそう口にした。
その日はこの季節特有の花曇りで、おまけに時折小雨までぱらついていたけれど、目黒川沿いの遊歩道は花見客でいっぱいで、僕らはどうにか首尾よく桜の木陰のベンチに陣取ったところだった。彼女は前日の遠出先でわざわざ買い込んできたという地ビールのラベルに視線を落として指先でなぞりながらそんなことを言いだしたものだから、まるで僕じゃなくビールの精霊にでも語りかけているみたいだった。
僕が桜について知っているのは、日本の国花であるということだとか、ソメイヨシノは接ぎ木で殖えるので日本中の桜の木はみんなクローンみたいなものなのだとか、せいぜいそれくらいのもので、そもそも桜でなくとも、花言葉が分かる花なんてこれっぽっちも思い浮かばなかった。
彼女とは、気軽に飲みに誘える程度の関係がもう半年ほど続いていた。会いたくなるのは決まって、仕事でちょっとした壁にぶつかったときや、定期的に通っているメンタルクリニックでの面談で痛いところを突かれたときで、毎回美味しい食事を口実に彼女を誘い出していたものだから、ここ数か月で僕は都内のこじゃれたレストランに随分詳しくなった。
彼女のほうから誘われることはあまりなかったけれど、「ねえ、飲み足りない」なんて夜10時を回った頃に連絡が来て、妙に気怠い顔をした彼女と、うちの近くのバーで待ち合わせたこともあった。
お酒なんぞいつだって口実に過ぎなくて、いくら平静を装っていても、誘い出した方がどれだけ精神的に揺らいでいるかなんてお互い顔を見ればすぐに分かったし、そういうときに何がほしくなるかも手に取るように分かった。僕らは強がりの裏の怯えと甘えを言葉もなく見透かし合って、痛みを共有していた。そういう夜は、大切な人と過ごすには粗雑すぎるし、一人で眠るには長すぎる。
「淡泊、なんだって。」
「え?」
「桜の花言葉。」
「…淡泊、かあ。」
そう呟いて僕は空を見上げた。互いが互いを癒すほど優しくも強くもないことに、僕たちはそろそろ気づき始めていた。
痛みに対して淡泊になりきれなかった僕たちは、いつになく互いの体温が指先をすり抜けてゆくのを感じながら、もう二度と会わないのだろうなという予感をあの日確かに抱いていたように思う。
《№1 お題: そろそろさよなら》
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エナメルさまのお題をお借りして、短いお話を綴っていきます。
やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことのはとぞなれりける
と紀貫之は記しています。
どんな深い思慮も、喜びも悲しみも、実はたやすく入れ替わり、時とともにうつろい、色あせていくものなのかもしれません。人はその虚しささえも、言葉として書き残してきました。
人の心から生まれ、育つ言の葉。うつろいやすい心が、うつろわぬ言葉として、あなたのもとに届きますように。
2016/09/02
こころ