煙草が嫌いな彼女の灰皿

「煙草のにおい、苦手なの」

「…分かってるよ」

乱雑に脱ぎ捨てられてくしゃりとベッドの横の床に丸まったジーンズのポケットを彼が探りかけたから、重くなりかける瞼を無理にこじ開けてなんとかそう吐き出したのを、おぼろげに覚えている。そのあとベランダへと続く掃き出し窓が開く音を聞いたような気がしたけれど、記憶は曖昧だ。

明け方目が覚めたときには、住み慣れた部屋はもういつもの表情で、吸い殻の入った淡麗の空き缶だけが、初夏の陽差しを浴びながらベランダの手すりに所在なさげに残されていた。その代わりに、本棚から村上龍の小説が1冊だけなくなっていた。

数日後、旅行先の土産物屋で、地元の若いアーティストが制作しているというガラス製品を見つけた。中でもひときわ目を引いたのが灰皿だった。

空き瓶を再度溶かし直して作られたのだという、たくさんの気泡の混じったそれは、透明なのに不透明で、軽やかなのに重厚で、海の色なのに山の気配がした。

via: http://ryukyuglass.blog102.fc2.com/blog-category-14.html

もう会いもしないかもしれない男のために灰皿を購う自分を、滑稽だとは思わなかった。指先から消えてしまえばいいと思っていた自分のその指先を彼がなぞって受け止めたように、彼の息の先から崩れてゆく灰を受け止める何かが、自分にも必要だと思った。

揺れているのが心か身体かなどという自問自答ははなから無意味な気がした。心はもともと定まってなどいなかったし、身体はいつだって彼女自身のものだった。

次に部屋を訪れた彼に灰皿を差し出すと、少し驚いたように片眉を上げていたけれど、唇の端に薄い笑みが浮かんだのは気のせいだっただろうか。朝起きるとやっぱり彼の姿はなくて、ベランダの手すりには灰皿が残されていた。

彼が灰にしてしまいたいものまでも愛せると思った。いつか自分が灰になるとしても。

冬が来る前に彼は彼女の部屋を訪れなくなったけれど、あの灰皿はまだ彼女の部屋にある。小物入れだとか、アロマキャンドルの台だとか、石鹸入れだとかに使ってみたりもしたけれど、結局なんだか落ち着かなくて、本棚の上から二段目、村上龍とロバート・B・パーカーの並ぶ段に、あの日の空き缶のように所在なさげに置きっぱなしになっている。

本の並びはやっぱり一冊だけ欠けている。どれだけ日々や記憶を重ねても、彼女の本棚の一角だけは、いつまでたってもひっそりとあの日のままなのだ。


《№2 お題: いつまでたってもあの日のままで》

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すっかり風が秋めいてきました。ひと夏の記憶を鼻で笑うこともできるけれど、冷たい風の中でふとどうしようもない肌寒さを感じたときに、前を向いて歩いていくつよさをくれるのは、夏の太陽の記憶なのかもしれません。


エナメルさまのお題をお借りして、短いお話を綴っています。

人の心から生まれ、育つ言の葉。うつろいやすい心が、うつろわぬ言葉として、あなたのもとに届きますように。

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