誰かのために、という言葉はいついかなる場合でも美しくない。
そう嘯いたのは大島弓子だったか。私の「ああしてあげたいこうしてあげたい」は優しさでも思いやりでもなくただの自己満足か、もしくは「なんでもするからここにいていいって言って」、などという血を吐くような叫びの裏返しでしかない。
身を切るような寂しさも、それに耐えかねて落ちる沼の深さも暗さも、弱すぎる自分に対する羞恥心も諦観も知っている人となら、きっと分かりあえるけれど、傷を舐め合うことに意味などないと言われてしまえばそれまでなのだろう。
ほんとうにほしいものが手に入らないならそれ以外のなにもかもがほしくて、歪な手に入れ方ばかり覚えたから、ほんとうはなにひとつ手に入れてなどいない気もする。さしたる努力もせずにあっさりと手にしたものは、同時に至極あっさりと手放せるものでもあり得て、執着する意味さえ見いだせない。
寂しいときに寂しいと言えないことも、またひとつのエゴのかたちなのだろう。
エゴを手放せない私には、生活や精神を侵食するような執着を見せる余裕はまだない。
抱き合って得られるものが話し合って得られるものより尊いときもあるし、話し合って失うものが抱き合って失うものより大きいときもある。
傷ついてささくれたり、欠けてギザギザになったりした私の心の縁を、酷い言葉で冷やしてくれる人やそれ以上の痛みで逸らしてくれる人にばかり惹かれていたけれど、ほんとうは私だって暖かく柔らかく癒してほしいのだと、叫んでしまったら立ち直れなくなりそうで、私は私を救えないから、だから、さよならのときには、私さえいらない。
私は私のためにしか生きられないから、「全部あなたのためだったのに」なんてそんな美しくない嘘を吐くくらいなら、さよならのときには、あなたを好きだった私さえいらない。
《№6 お題: さよならのときにきみはいらない》
-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+
エナメルさまのお題をお借りして、短いお話を綴っています。
人の心から生まれ、育つ言の葉。うつろいやすい心が、うつろわぬ言葉として、あなたのもとに届きますように。