「第3夜:”ひらめき頼り”の我が卒論制作」

卒論の参考文献リストが着々と増えている。
さっき40冊目をリストに書き足してきたところだ。
Evernoteとキャンパスノートには流れが書かれているのだが、本文は未だ殆どが真っ白のままである。
猛烈な勢いで書き進める同期のゼミ生を尻目に、頭に浮かぶのは「動かざること山のごとし」という厳めしい言葉と、タイムマシーンと並んで完成するする詐欺として知られる「サグラダファミリア」のイメージである。


大学院に進むわけでもない私にとっての卒業論文とは「総力戦」そのもので、あらゆる抽斗をとにかく開け閉めして、使えそうなアイデアは次々に投入していく。
大学以前から細々と読んでいた難しげな本だろうが、最近読んだばかりの本だろうが、もうとにかくジャンルの見境なく繋げていく。
そうこうしていると、卒論とは本当に自分が(クソつまらない授業は飛びまくり、ムカついたら最前列で読書してその授業が出禁になったりした、そんな思い出がたっぷり詰まった)大学にわざわざ頼まれてもないのに来た意味を苦し紛れの一発大逆転で「自己証明する」作品なんだなぁと感傷的にならずにはいられない。

だが現実はそうドラマチックでもない。なんせテーマが、かっ飛んでやがる。

「自己啓発=動物=意識高い系」を繋ぎ合わせて、人々が相互不信、見たいものだけを見る時局にあって、自己啓発が新たな連帯の可能性を秘めていることを説明するという「分野」だ。
研究手法など確立されているはずもなく、暗中模索が続いているのも当然という訳だ。
さらに指導教員及びゼミ内からは、アクロバティック(笑)な論理展開をゴリ押しする「大道芸人」として既に私は認知されてしまっており、行き詰っても誰も助けてくれない可能性が極めて高いのである。
アクロバティック大道芸人の末路やいかに。

気分はさながら、一輪車に乗っていくつかのお手玉を空中に放りながら、忘年会の店をスマホで予約し、さらにすぐ脇を走る低速のポルシェと一輪車で速さ対決をしているかのようだ。
1日に5回くらい論理の致命的とも云える欠陥が見つかり、補強材に必要な新しい文献を取りに図書館や自宅の書棚の前を「一輪車」でフラフラ走り回る。


そんなドタバタでトホホな毎日なのだが、唯一の救いは1年にそうそう来ない「ひらめき」が図書館を走り回っている間に湧いてきたりする。

というよりかは、ひらめきが降りてこないと論文が進まない、という状況が十分にコメディ的で、論文ってそもそもそういうクリエイティブなアートみたいなものじゃなかったはずだよね、という理性の囁きを必死で払い除けながら、ありがたくそのひらめきを頂戴する。

こんな調子でやっているとそのうち、夢でお告げがくるに違いあるまい。
もしくは徹夜が数日続いたときに、見えないはずの物象を幻視し、神の託宣として卒論をまとめてしまう可能性すら捨てきれない。
困ったらフィリップ・K・ディックのSFに登場する薬物「substance D」が、ヒッピー文化/神秘主義/カリフォルニアイデオロギーともれなくセットで私を待っている。


そして問いは戻ってくる。

「卒論ってこういうことをするものだったっけ...」

私は今もなお、何度でも立ち戻ってくるこの疑問に、納得のいく答えが出せないままで第3夜を迎えている。

2017/12/3

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