無知の知
人は人の上に立ちたいという欲を持っています。
そして、より高位な人物ほど知識を持ち備えている、 と多くの人は思っているのだと思います。
しかし、そうとは限らない。
知恵ある無知なものは学識ある無知(docta ignorantia)とは、知恵のある状態とは、無知の状態を内包する状態であることを言う。
実はソクラテスは「無知の知」などという言葉は使ったことはないそうです。
「何も知らないということを、知っている」というソクラテス理解は、キケロから15世紀のニコラウス・クザーヌスを経由して、近代のソクラテス理解につながったのである。クザーヌスの「知ある不知=docta ignorantia」のドイツ語訳が日本語で、「無知の知=das Wissen des Nichtwissens」と訳され、定着してしまったのである。
知識を好んで得る者として、この “ docta ignorantia(≒無知の知)” という考え方に添って生きたいなあと思っているのですが、難しいものです。
日本人が知識をひけらかす、または相手を小馬鹿にしようとする手段として「英語」というものがあります。
「お前の英語、なんか小学生みてえだな」と言ったり、帰国子女とかだと英語であえて話をしたりすることもあります。
しかし、そういう人はネイディブから見ると逆にみっともなく見えたりするもの。
(この動画はライブ放送を抜粋編集させたものみたいなので話がいろいろになってます。あとタイトルが関係ないのも気にしないでください。)
帰国子女の友達が結構いるのですが、彼らも日本にいるときは結構英語で話したりしてるのに、いざアメリカにまた行くことになったとなると結構英語のことで頭を悩ませていたりします。
ネイティブの発音はやはり少し特殊なんだとか。
知識欲というものは人間にこびりついて剥がれないものですが、それで他者を卑下したりしないように気をつけなければなりません。
また、「無知の知」を使って他者を卑下するのもあまり好きじゃないです。
難しいものですね。