きく

Yuri
ただいまを言いたくて
Jul 20, 2022

この数日で「民主主義」という言葉をたくさん聞いた。ここ最近の世界の関心であり、また私自身の関心でもあった民主主義体制の行方やその本質というものが、先日の事件をきっかけに不本意にも広く議論されていると感じる。加害者の動機や背景を見れば、これは民主主義どうこうの話ではない、という意見もあるが、早かれ遅かれ私たちは日本の政治体制について改めて考える必要がある。選挙ポスターを見れば、ポピュリストが存在感を放つようになり、また高齢者の増加によってシルバーデモクラシーは加速している。分断によって憎悪が蔓延り、惨い事件が繰り返される世の中で、一人ひとりの社会に向き合う姿勢はより一層重要になると思う。

民主主義はよく専制や君主制、独裁制などと比較されるが、とりわけ世界中で問題視される「民主主義の崩壊」や「民主主義の死」といったものは、そのような別物の政治体制への希求から生じるのではない。それは、真っ当な民主的プロセスの中で、無知な大衆によって政治が支配される衆愚政治の台頭によってもたらされる。この衆愚政治は、皮肉にも民主主義の根幹である選挙を通じて発生する場合が多い。冷戦期に起きた民主主義の崩壊のほとんどは、将軍や軍人などではなく、選挙で選ばれた政治家が率いる政権そのものによって引き起こされ、同じく2016年のアメリカでも、民主的な手続きの結果としてトランプ政権が誕生した。

また、かつて帝政から共和制へ移行されたワイマール期のドイツでは、民主制そのものが民主主義を蝕んだ。彼らは、政治体制の移行を通じて、当時としては画期的な男女平等や言論の自由を享受していたが、ナチスドイツの異常性は、その後1945年の政権破局に至るまで、国民の意識に上がることはなかった。かつてアーレントは、「ナチスがユダヤ人大虐殺を行なった根源的な悪は、考えることを放棄した凡庸な人間が起こした」と述べた。ナチスドイツとは、まさにアーレントが論じたように、危機的状況を過小評価し、人々が考えることを放棄した結果でもあったはずだ。

つまり民主主義は、主権者が国民である以上、一人ひとりが思考を続ける姿勢によって維持されるのだと思う。そして、その思考を根拠づけて発言し、活発な言論を社会全体で形成する過程の中で、結果として他者との合意点が明らかとなり、マイノリティを含めたすべての人々が尊重される社会が作られていく。しかしながら、私たちは自らを取り巻く環境に慣れてしまい、日々の微細な変化に驚いたり、怒りを覚えたりすることを次第に忘れてしまう。目の前にあることで忙しく、自分とは関係ない社会のことは上手く考えないようにして日々をやり抜く。しかしその姿勢は、きっと気付かぬうちに民主主義体制を内側から蝕み、私たちの生活を脅かすようになるだろう。苦しい時こそ、考える姿勢を忘れないことが大切だろうと思う。

そして、一人の人間として日々考え続けることは、他者の声を聴くことと密接に関わっている。「考える」という言葉は、「かむかふ」という単語が語源になっているらしい。批評家の小林秀雄は「む」は身、すなわち自分の身で、「かふ」は「交わる」ことであるため、「考える」ということは、対象と自分とがある親密な関係に入り込むことであると説いている。他者を受け入れる行為、つまり考える行為は、現代では個人にばかり焦点が置かれるが、実際には、他者との交わりや関係性を思考することに他ならない。だからこそ、考えることの実践とは、まず他者の声を聴くことから始まるのだと思う。日々考えることをやめない人とは、すなわち誰かの意見を日々聞いている人でもあるのだ。他者の苦悩に耳を傾け、そのニーズを汲み取り代弁するそんなケアの本質が、民主主義社会を支える根底になっていくだろうと信じたいと思った。

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