きく

普段の生活のなかで、視線が交わらないことによって一緒にいる人と無言でも大して気にならないときがある。たとえば、ドライブをしているとき。運転席と助手席に座って移り変わる景色を眺めながら、話したり話さなかったり、音楽を聴いたりする。2人で身体ごと同じ方を向いていて、かつ1人は運転という集中を必要とする行為をしているから、無言の時間があってもあまり気にならないのだろう。また、電車で横並びに座っているときにも言えるが、景色があるから目のやり場に困ることもない。加えて、スポーツ観戦でも同じことが言える。私は趣味でよく野球を観に行くのだが、身体の向きが同じであること以上に、プレーを観るという明確な目のやり場があることが気まずさを軽減してくれているのだと思う。

ワンピース制作の動画を何度も繰り返し見るなかで、ほとんど目を合わさずに作業が進行していることに気づいた。作業に関係のない雑談をするときでさえ、それぞれの手元から目を離すことはあまりない。そのなかで、見ているわけではないのに、相手の動きを察知して気遣っている場面がいくつかある。たとえば、おかゆ(今回協力してくれた友人)が手縫いで布にしつけをかけていて私がミシンで縫っているとき、私が顔を上げてキョロキョロしただけで、おかゆが「なにか使う?」と聞いてくれた。自分の手元を見ていたはずなのに、私のささいな動きに気づいて声をかけてくれたのだ。私のことを見ていたわけではないが、視界の端の方に映っていた、あるいは私が動いたときの音が耳に入ったのだろう。他にも、おかゆが縫う動線を布に書き込む作業に対して「むっず〜」と何度も言っている傍らで、私は「何色がいいかな…」と糸を探しながらぶつぶつ呟いている場面がある。この間、私たちは一度も目を合わせていない。加えて、互いが発する言葉もあまり気にしておらず、私が「手伝おうか?」とおかゆに声をかけることも、おかゆが「この色は?」と私に提案することもない。この場面では、視線が交わらなかったことに加えて、相手の発する言葉に反応もしていなかった。

私たちは人と空間を共にしているとき、意図せずとも他者から発される情報を受け取っている。そして、受け取った情報に応じて自分の発話や動きを調整している。上述した一つ目の例では、おかゆが私の動きから「あゆなが何かを探している」という情報を受け取り、「なにか使う?」という返答をした。それに対し、二つ目の例では、互いの発話が聞こえているにも関わらず、互いにスルーしている。自分の発話や動きを調整する際に、何もしないという選択もありうるのだ。当初、私は相手が困っているような言動をスルーしている自分に対して、よくないことだから今後は反応するようにしようと考えていた。しかし、何度も動画を見返すなかで、この適度に返答し適度にスルーしている〈ゆるいやりとり〉こそが、その場の居やすさにつながっているのだと気づいた。

〈ゆるいやりとり〉がされているとき、必ずしも相手の発話に耳を傾けているわけではないことも重要な要素だと思う。制作中は「耳を傾けている」「聞いている」というよりは、「耳に入ってくる」「聞こえている」といった表現のほうが合っている。話が耳を通り抜けていても、互いに好き勝手ひとりごとを言っていてもそれほど気にしない。話さなければいけないという焦りも生じない、適度な会話の距離感が保たれている。人と対面して話しているとき、私は目を合わせ、相手の言葉に耳を傾けることに注力しがちになる。〈ゆるいやりとり〉を成り立たせるには、今回のワンピース制作や料理のような作業を共にしているという条件が必要そうだ。加えて、冒頭で挙げたドライブやスポーツ観戦の例のような身体の向きも大きく影響しているだろう。〈ゆるいやりとり〉は私たちのコミュニケーションに欠かせないものだと思う。それが成り立つ具体的な状況や要素について今後の卒業プロジェクトで考えていきたい。

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