きく

生活史の聞き取りを始める時、「人生全て」 なんて、どのように聞くのだろう、という素朴な疑問があった。

東京の生活史で、生活史の聞き方についてレクチャーを受けた。講師である岸正彦さんの回答は、「人生全てなんて聞けるわけない、一部でも聞けたということに価値がある」ということだった。それもそうだと思った。何かを聞き出そうとしてしまう時、この言葉を思い出すようにしている。しかし、せっかく時間をもらって話を聞くのだから、面白い話が聞きたいという前のめりな自分が見え隠れするのも事実だ。

「プロカウンセラーの聞く技術」という本に「LISTENせよ、ASKするな」という章がある。

たずねるのと聞くのとのいちばん大きな差は、「たずねる」のが質問する人の意図にそっているのに対して、「聞く」のは話し手の意図にそっていることです。だから、たずねてばかりいると、自分が望んでいる情報ばかりを集める結果になり、結果がその人なりの相手の立場から発した情報が得られなくなってしまいます。

メディアでの取材などでは、質問者の意図にそった「たずねる」の場合が多いだろう。しかし、生活史の聞き取りは「その人なりの相手の立場から発した情報」ありきだ。

「たずねる」ではなく「聞く」ために必要なことはなんだろうか。私が数回の聞き取りを経験する中、「自分を忘れること」が重要だと気づき始めている。

語り手の話に共感し、自分の話をしたくなることが度々ある。語り手の境遇に自身や知っている他者を重ね合わせ、同じような話を持ち出したくなったり、具体的なエピソードが頭で浮かんだりする。

しかし、極力話さないようにしている。自分の話をしてしまうと、確実に流れを変えてしまう。そして、相手の話す気を削いでしまう。岸さんは「他人の人生を自分語りの手段にするな」と言っていた。自分の話を聞きたいと言われてその場に来ているのに、聞き手の話を晒される時間は、気持ちの良いことではない。

一度、かなり付き合いの長い友人に聞き取りをお願いした。初めの方は聞き手と語り手という構図が守られていたものの、徐々に雑談になってしまった。この時も、語り手からの質問に答え過ぎてしまったというのが原因だろう。あくまで聞き手と語り手という役割を守ったまま、聞き手に徹することから逃れてはいけない。

考えるのは、文字起こしの時にとっておく。現場では、聞くことに必死になるし、ならざるを得ない。その後のやりとりを改めて聞き直すと気づくことが多くある。語り手の意思決定の癖のようなものは、細かなエピソードに滲み出る。聞いているときは気に留めていなかった話も、聞き直してみると過去とのつながりを見出すことができたりする。「気づきは後からやってくる」ことを、私は文字起こしの時に実感している。

語りの内容だけではない。自分自身の聞き方にも反省することが多々ある。インタビューに関しての説明、相槌の打ち方、問いの投げかけ方、笑い声など、無意識の振る舞いに気づくことになる。その時の反省を抱え、また聞き取りに向かう。その繰り返しで、本当の「聞く」を習得していくはずだ。

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