ふり返る

Yuri
ただいまを言いたくて
Jan 19, 2023

この研究会に入ってから、「ふり返る」という言葉をたくさん聞いた。これまで大学で受けてきた授業では、自分が知らなかった言葉で知識や方法が語られることが多く、そのような新しい言語を獲得することに没頭していた自分にとって、この言葉はかえって新鮮なものに思えた。小学校の頃、学期末に「ふりかえりシート」というものを書いていたことを思い出す。今学期の生活や学習態度を思い返し、早寝早起きができたか、忘れ物をしなかったか、授業で発言ができたかなど、ある程度テンプレ化された「善い小学生」であったか否かをこのふりかえりシートを通して可視化するものだった。この記述が三者面談などで担任の先生から反芻されることに、当時むず痒さを感じていたことがうっすらと記憶に残っている。

しかし、大学生になって改めてこの言葉をきくと、日々何かをふり返ることが自分の行動様式として身についていないことを気づくようになる。小学生の頃にテンプレ化されていた「ふりかえりシート」は、もはや今の自分にとって意味をなさない。そうなった時、ふり返るという行為の難易度の高さに初めて驚き、慄くような気持ちになる。ふり返るという言葉には、復習や反復といったような言葉が表すような、これまでに得た知識や考えをただなぞるという意味合いだけではなく、固有の視点からの俯瞰を通して、新たに言葉を生み出していくというニュアンスが含まれている。つまり、自分自身の“意識を”意識し、さらにそこから新たな発見を生み出していくという、かなり高度な枠組みを要する行為だと私は解釈している。

こうして今、ふり返るプロセスに立ってみた時に、自分自身の意識の未熟さが様々に出現してくる。何よりもここ数ヶ月で感じたのは、初めて複数の章に渡って文章を書いてみる中で気づいた、文章構成や表現における自分自身の意識の及ばなさだった。これまで私が読んできたお気に入りの本たちは、もっと言葉の流れが自然で、頭の中に入ってくる意味の量が心地良く、著者の思考に没入できるようなリズムが作られているように感じる。しかし、自分の書く文章はなんとなくリズムが速く、読んでいても思考に没頭できない物足りなさがあった。心地の良い文章と自分の文章を比較し、自分自身の文章を書くプロセスを検討する中で、そこには自分自身が文章を書くときに、読み手のリズムをほとんど意識できていないという要因があったことに気づいた。とりあえずは書き上げてみたものの、そこに表れている文章は、複雑な意味を持つ言葉が唐突に降ってきて、チグハグなリズム感が不自然に際立つような心地悪さがあった。自分がただ読み手であった頃には考えたことがなかったような、書き手に必要な意識を初めて意識した瞬間だった。

そしてさらにふり返って考えてみると、読み手を強く意識するような文章をほとんど書いてこなかったことに気づく。複数の章に渡って丁寧に自分の主張を記していく時には、読み手に寄り添い、綿密にプロットを立てるというような更なる丁寧な構成が必要だ。しかし、これまで私の文章を読んでくれた人たちには、同じ授業内容を共有していたり、私自身のことをある程度理解してくれたり、という文脈が存在していた。しかし、この文章の予想される読み手と私が共有する文脈は、「同じ社会を生きている」というぼんやりとしたものでしかない。その中で、理解の手がかりを作れる余白や没入できる詳細な記述を行うことに意識を向けて、構成や表現を調整していくべきだと感じた。

自分自身がどのように物事を遂行し、またその行為を実践する際に何を気にかけているのか、ということは実際には意識を向けづらく、また他者によっても多く語られないような領域なのかもしれない。しかし、かつて「ふりかえりシート」のような形で自分の行為を思い返しながら、自分自身が意識していなかった意識を発見していくことは、今も昔も善いものを作ろうとする際に重要なプロセスなのだろうと感じている。

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