ふり返る

バイト先で仲良くなった人がたまたま女子校出身だった。それを知ったのは、彼女が言った「女子校出身なので恋愛とかあんまり興味なくて」という言葉だった。「なので」と因果関係で繋がるのかは微妙なところだが、話の文脈としてそう切り出すことはとてもよく分かるので、「私も女子校出身なのでよく分かります」と答えた。高校を卒業したあとに同じ女子校出身者と出会うとテンションが上がるのはあるあるだが、大事なのはその出会いの瞬間だ。なんでもない会話の中で「私女子校出身なので〇〇なんですよね」という言葉が挟まれる。その〇〇に入る部分は、世の中の規範に反していることが多い。私が毎回どきりとするのは、女子校という特殊な環境を言い訳にするしたたかさを持って、しかし規範には迎合できないという不安感を持って、「女子校出身なので」という言葉が使われるからだ。

女子校について研究するならば、実際の高校生に話を聞いてみてはどうかと言われることが多い。しかし、私のプロジェクトは「女子校をふり返る」ところからはじまる。大学に入ってからしばらくは、中高時代の友達と集まると「女子校最高!ウチら最高!」という合言葉が自分たちの思い出をまもる言葉になっていた。何が最高なのかを語ることが重要なのではなく、別々の環境に身を置いている中で、それでも自分たちの時間がそこにあったことを確認したかったのだ。大学を卒業しようとしている現在、私たちの語り方は少し変わった。さらに別の環境を控えている中で、ふたたび女子校をたぐり寄せるかのようにふり返りはじめている。それは、就活で自分自身をアピールするような身の上話ではなく、場合によっては声を潜めなくてはいけないような話だ。

新しい人と知り合って「女子校なので」という言葉で距離が縮まったとしても、具体的な話を聞き出そうとしたりはしない。その言葉の中にあるであろう幾重もの経験に思いを馳せるだけだ。しかし、今中高の友達と話す時、その経験を一つ一つ取り出しているような感覚がある。女子校を言い訳にすることで、例えば規範を求めてくるような人に対しては、詳しく説明することを回避できる。一方で、同じ女子校出身者や似たような経験のある人に対しては、詳しく説明しないながらも「察して」もらうことができる。どのような人との対話を避けて、どのような人に察してもらいたいのか。そしてなぜその規範について詳しく語ることを避けるのか。「女子校なので」という言葉一つで、私たちはたくさんのことをふり返ることができる。

オルフェウスは、冥界を出るあと少しのところで振り返ってしまった。振り返るという行為は、長く、そして不安になる道のりがあるからこそ際立つものである。「ウチら最高」という言葉だけでは終わらせられなくなった今、ようやくふり返る準備が整ったように思う。女子校からもう少し遠くにきた知り合いは、仕事や結婚という言葉とともに女子校をふり返る。しかし、聞いてみるほどに「そういえばあの時」とすでに何かを感じていた瞬間があることがわかってくる。振り返るタイミングがあるだけで、振り返りは物語がはじまった頃から運命づけられているのだ。

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