ふり返る

大学3年を終えた春先、新型コロナウイルスの影響で経営難に陥った母の店の手伝いのために1年間の休学を決めた。就活を始めずに休学した私に、友人は「モラトリアム(症候群)だ」と言ったし、実際そうだったのかもしれない。母の店の手伝いは、やりくりすれば休学せずに並行できたと思う。手伝いというのは口実で(もちろん、大変だったけど)、当時の私の中にはきっともっと別の理由があった。

卒業が迫ってきて、何者でありたいのかを考え、人生で成し遂げたいことを考え、考え尽くして、私はそれらを求め続けることに疲れてしまった。そうして、もやもやとした悩みが渦巻いたまま休学した。1年という期間は、思っていたより長かった。「大学生」という肩書きから離れたことで、自分の属性も状態も曖昧になった。きっと私は曖昧なままの自分を許す期間を求めていた。焦らずに、それまでをふり返り、「今」を見つめる時間がほしかったのだと思う。復学して大学4年生となり、約10ヶ月が経った。この10ヶ月間、意図せずあらゆることを休学期間と結びつけて考えていた。ゆっくりとふり返るなかで別の理由を認識するようになったし、やっと当時の気持ちを整理できている。

同じように卒業プロジェクトも、終わってから、数年後、数十年後と、時間を経てから考えられることがあるはずだ。取り組んでいる最中も気づきは多くあるが、即時的な気づきがすべてではない。次の4月から社会人になって環境が大きく変わり、その変動のなかで卒プロについてまた考え、気づくことがきっとある。そして、『ただいまを言いたくて』もふり返るときの手がかりになるだろう。

今回の原稿を書くにあたって、『ただいまを言いたくて』についてふり返った。月に一度のペースで1600字の文章を書く。簡単なようで、約1年間続けてみると、意外と大変だった。しかし、これまでに書いた文章を並べて見ると、率直に毎月続けてきてよかったと思う。毎月、テーマに沿って卒業プロジェクトの進捗や日々の想いをまとめていたが、「みせる」を書いたときには、映像を他者に見せる、見られることにより自覚的になった。映像を見せたときに感じた恥ずかしさやちょっとした違和感は私の中にずっとあったはずなのに、他の気づきに気をとられて見過ごしていた。毎月のテーマを通して卒業プロジェクトを捉え直すことで、少しずつプロジェクトが補完されていったように思う。

また、だんだんと、他の3人がどのような内容にするのか想像しながら書くようにもなった。互いの原稿を読んでコメントし合う数日間は、それぞれのプロジェクトを自分の関心に寄せて考える時間でもあった。加えて、1ヶ月遅れでやってくる加藤先生からの「返事」も、私たちの文章を読んだうえで、先生がその月のテーマをどうとらえたのかを知ることができ、文章を再考する手がかりとなった。文章を書き終えても余韻が私の中に残って、他にもっといい表現ができたのではないか、別の糸口もあったのではないかとつい考えてしまう。1ヶ月後というタイミングが、それらを含めてふり返るのにちょうどよかった。

日常のなかでふと思い出し、つい関連づけて考えてしまうという意味で、私たちはほとんど常にふり返り続けている。そのため、ふり返りが完了することはないのかもしれない。現場はおもしろくて楽しいため、多くの発見がある。しかし、現場を離れた後でこそ、ゆっくりあれやこれやと考えをめぐらせることができる。大切なのは、焦らずゆっくりと、時間をかけて考えてみることだと思う。卒業プロジェクトもあと数ヶ月で一旦「終わり」を迎えるが、この経験は私の中にずっと残り続ける。「終わり」を迎えても、何度もふり返ることで、卒業プロジェクトへの私自身の理解も変わっていくだろう。

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