「みせる」を読んだ。

学生たちのプロジェクトの成果物に触れる時季が来た。いつのころからか、年の暮れに初稿をもらって、年末年始に目をとおすのが習慣になった。赤ペンを片手に、それぞれの思考の流れを辿る。プロジェクトをすすめるのは一人ひとりの役目だが、それは独りで完成させることではないと考えている。教員や友人たちに感想やアドバイスを求め、それをふまえて再考する。この往還的な流れの価値に気づくことができれば、コミュニケーションをとおして自分の思考が整理されてゆく。
日常的なやりとりがある場合には、お互いに、ごく自然に行間を読むことができるようになる。特定の用語の意味合いがわかるし、多少ことば足らずであっても通じる。参考になりそうな話題や資料を紹介することもできる。ふだんさほどやりとりがない場合には、やや唐突な印象を持ちながら初稿に向きあう。このプロセスは、静かにゆっくりと動いている。だからこそ、最後の仕上げの段階になって、日常的なコミュニケーションの価値をあらためて実感するのかもしれない。

もちろん「みせる」側も大変だ。長い文章を書くことに慣れていないと、自分のことながら、全体像をつかむのが難しくなる。初出の箇所を意識しながら、話の流れをつくる。ぼくも、本を書くときは、自分で書いておいて何を書いたのか把握できないような、そんな感じになる。また、当然のことながら、自分が(一番よく)知っていることを書くので、あれこれと省略しがちになる。前提条件や思考の流れは、自分にとって「あたりまえ」になっていて、細かく説明することが冗長に思えてしまうのだろう。
日常的なやりとりをとおしてプロジェクトの理解が深まると、期待したり、期待されたりという関係も醸成されることになる。すべてを「みせる」ことはできないのだから、プロジェクトにかんするコミュニケーションは、つねにある種の揺らぎや曖昧さをふくんでいる。でも、そもそもぼくたちが標榜している方法や態度は、唯一の「正解」がない問いに向き合うためのものだ。だから、「見せる」内容も方法も、結局のところは書き換えられることを前提としたものだと考えておくのがいい。

そして、成果発表のための展覧会は、「みせる」場所としての大切な役割を果たす。上述のように、大学におけるプロジェクトという文脈で教員や友だちに成果を「見せる」場合は、どうしても狭い意味での「評価」とつなげて考えがちだ。おのずと「終えること」に意識が向く。いっぽう、まちなかのギャラリーでの展示は、広く不特定多数のまなざしを向けられることを意味する。自分の活動内容や最終的なまとめを見るのは、誰なのか。そこでは、〈多声〉に触れることになる。
ぼくは、教員という立場と役割でさまざまなコメントをする。だが、不思議なもので、キャンパスや教室・研究室を離れて、あらためてギャラリーで眺めると、同じ成果物のはずなのに、ちがって見えてくることがある。場所が変わることで、「見え」が変わる。もちろん、ギャラリーで展示していれば、通りすがりの人、つまり「フィールドワーク」についてさほど前提知識のない人もやって来る。まったく予期していない質問を投げかけられることもある。他者の視線を意識するとき、ぼくたちは、あらためて「みせる」ことの難しさと向き合う。

「終わり」は、容赦なくやってくる。つねづね思っていることだが、より大切なのは「終わり方」だ。コミュニケーションのなかでアイデアが醸成され、時間をかけて育てられてきたのなら、その関係性を尊び、その関係性にどのような節目を設けるかについて熟考するのがいい。撤収とともにギャラリーは空っぽになるが、そこにいたるまでのコミュニケーションも一瞬で消えてしまうものなのだろうか。プロジェクトの成果は、「記録」となって、ときには長きにわたってぼくたちの関係を維持するのに役立つはずだ。赤ペンを手にするとき、たいていプロジェクトの「終わり方」について考える。

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Fumitoshi Kato
ただいまを言いたくて

日々のこと、ちょっと考えさせられたことなど。軽すぎず重すぎず。「カレーキャラバン」は、ついに11年目に突入。 https://fklab.today/