みせる

ここ二ヶ月ほど、聞き取りの録音データを聞きながら文字に起こす作業をしている。音声を文字に変換する作業は簡単そうで難しい。少し考え込む様子に「……」を入れるのか。「?」や「!」はどのニュアンスまで入れるのか。笑い声はどう表現するか。2、3時間の音声データと向き合い、複雑な言葉の連続をいかに文字へ落とし込むかを考えるとキリがない。そんな中でも、できる限り語り手の語り口を残したいという気持ちから、音声データそのままを文字に起こすようにしている。

「なんか」や「あの」、言い間違いや繰り返し、文脈がちぐはぐであっても、そのまま文字にしている。読まれた時の伝わりやすさより、語り手のありのままを記録することの方が私の中で優先度が高いからである。

しかし、語り手にそのままを見せると「支離滅裂に話してしまっているから直しても良い?」や「語尾を直したい…」という連絡が来たりする。それもそうだよな、と思う。無意識に発している「なんか」や「あの」などの言い淀みが文字になって現れると、気づかなかった癖が如実に出て気恥ずかしい。それは聞き手側の自分の音声を聞いていても思うことだ。

その反応を受けるたび、なぜそんなに「そのまま」にこだわっているのだろうと思い返す。街の人生東京の生活史を読み、ありのままが面白いと思えているのはもちろんある。しかし、言い間違いは直した方が読みやすいし、話の順序を変えた方がわかりやすい。だけれど私は頑なに言い間違いは、言い間違いのままにする。文字数の関係で質問に対する回答ごと削除することはあるけれど、大幅に順番を入れ替えることはしない。

今まで「語り方に語り手らしさが出るから」という理由を伝えてきたが、理由として心もとない気もしている。これに関して、構成と語り方の二つについて述べられると思う。その中でも、語り方を残すことについて考えてみたい。

中学生の頃、好きなアイドルのラジオの書き起こしを貪るように読んでいた。当時、radikoのエリアフリー機能が存在せず、地方では聴きたいラジオが聞けなかったのだ。熱心なファンが毎週毎週ラジオの内容を文字に起こし、ブログにアップしてくれていた。パーソナリティの口調も忠実に再現されており、テレビで見る彼らの声や話し方を重ね合わせながら、頭の中でラジオの様子を再現して楽しんでいた。今思えば、熱烈なファンだからこそ、彼らっぽさを表現できていたのだと思う。雑誌のインタビュー記事よりも、様子を想像しやすい生々しさが好きだった。忠実な文字起こしによって「現場感」を感じることができる。その体感が今も残っているのかもしれない。

また、何気ない素の記録に心が動かされることが多かった。誤って録画ボタンを押したまま放置された携帯に残った友人との会話や、SNSの下書きに残ったままの文章など、おぼつかない記録が私にとって大事だった。それらに意図した編集はなく、そのままの記録だった。まわりには効率的な情報収集のための短時間でわかりやすく編集されたものに溢れている。インターネット上で自分のアイデンティティを切り取って表現することも増えた。そんな状況だからこそ、切り取られてしまう切れ端にもまなざしを向けてみたいと思う。

とはいえ、私が音声を聞き取り、取捨選択して文字化している時点で、編集は加わっている。一人で作業しているとなかなか気づけない癖があるのだと思う。さまざまな人に見せながら、編集の基準をことばにしていきたい。そして、語りを「そのまま」記録することと編集することのせめぎ合いを考え続けたい。

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