みせる

「〇〇を見ていきたい」という言葉を使うことが多い。研究会の発表の場面でも、掴みたい何かを見出した状況やモノに対して自らが介入していくことを「見ていきたい」と表現する。それは自分自身のこれまでをも内包した未来へ続く視線だ。そのような視線の移動を提示することで、考察するのか、解明するのか、ただ観察だけするのかまだ決めずにいるという意図的な浮遊状態を示すことができる。

小学生の頃通っていたピアノ教室では、年に一度発表会が開かれた。私は6年ほどそれに参加したと思う。友達のピアノの発表会に招かれたこともある。誇らしそうなその友達に小さな花束を渡しながら、どんな言葉を言ってほしいんだろうと考えた。自分の普段とは違う姿をみんなに見てもらいたいという気持ちが少しも分からなかったからだ。私にとってピアノは業務的な指の運びにすぎなかった。発表会も自分の意思とは関係なく出るものであり、見られるものだった。

「見ていきたい」を多用してしまうような人にとって「見せる」は少し威勢が良すぎる。一見使役動詞に見えるが、「見る」の使役は「見させる」。「見せる」はその間に佇むどっちつかずな存在。相手に対する強引さはないものの、「きっと見たいだろう」という少しの傲慢さがある。「魅せる」という言葉が表す引力のような陶酔状態も、そのような少しの傲慢さが蜜となるのだろう。ピアノの発表会に呼んでくれた友達は、入学式の日に遊具から私を見下ろして「ねえ、友達になろう!」と言ってきた子だった。びっくりした私は聞こえなかったふりをしてその場から立ち去ったが、結局その子は6年間を通じて一番仲のいい友達となった。

そんな私も自分のプロジェクトは「見せる」ことを前提に組み立てていた。映像を作ると決めた時から、壁に設置されたモニターのイメージがあった。なぜ「見られる」という受け身な状態でもなく「見ていきたい」という自分のうちに留まるような状態でもなく、「見せる」という少しの傲慢さを発揮したのだろうか。それはやはり、私にとって女子校的な空間が自分自身の興味ということを超えて、現社会にとって必要な場所であるという確信があったからだと思う。「きっと見たいだろう」よりも「きっと見たほうがいいだろう」のほうが近い。綺麗な満月が空に浮かんでいる時に、今ここにいない誰かにも見せたくなってしまうような、そういう傲慢さだ。緊張感のある議論は、たしかに私たちの感情をある地点に落とし込むために必要なものだ。しかし、「見たほうがいいよ!」という希望的な傲慢さは、僅かな時間一緒に月を見ている人たちの緊張をほどいてくれる。

これから考えていくのは、月を見上げた人たちがどのように語り合うかということだ。「見たほうがいい」という確信はあっても、見た人がどのような反応を見せてくれるかは未知数だ。しかし、もう小学生ではないから、聞こえなかったふりをされる可能性を考えながらも呼びかける方法を考えなくてはならない。せっかくなら、今まで隣り合うことのなかった人と月を見たい。専門的な言葉では繋がることのできなかった人たちと、見るという行為を通してその場に在りたい。そうすることでようやく、女子校という場所を保存し、また別の場所に見出すことができるのだろう。

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