みせる

ワンピース製作の映像を他の人に見せたとき、なんとも言えない恥ずかしさでいっぱいになった。おかゆのことを知らない友人に見せたときは、その人の前でのふるまいと異なる私の姿を見られることへの恥ずかしさだったと思う。おかゆと共通の友人に見せたときは、「(おかゆと私が)2人のときはこんな感じなんだ」と知られることへの恥ずかしさだった。どちらにせよ、おかゆとの「2人だけの世界」が他の人に共有されることに少し抵抗感を抱いた。そのことに気づいたのは、映像を見せてからだった。

どの関係性にも、2人だけでしか通じない言葉遣いや「ノリ」がある。おかゆと私の間でも、互いに目を見開いて合図をするとか、『千と千尋の神隠し』のセリフを突然会話の中に入れるとか、2人だけで通じるやりとりがある。それが突然第三者の目を意識したことで、このやりとりはおもしろいのか、不自然ではないのかと評価するようになってしまった。もちろん、誰かにとっておもしろくある必要も、自然である必要も(迷惑をかけない限り)ない。しかし、〈そこに映る人〉でありながら〈客観的に見る人〉でもあるという二面性が私を混乱させる。

1ヶ月ほど前、おかゆと旅行した。そのなかで、映像を見ているときだけでなく、実際におかゆと過ごすときにもその二面性をもってしまっていることに気づいた。新幹線に乗っているときも、観光地を巡っているときも、〈おかゆと一緒にいる私〉でありながら、どこか〈2人を俯瞰して見ている私〉がいた。自分たちが周りからどう見えているのかを過度に意識してしまい、「2人だけの世界」を素直に楽しめなかった。どうしても、ワンピース製作の映像を通して知ったおかゆと私の関係性を再理解する時間になってしまう。たとえば、私が一眼レフで風景を撮影しようとすると、おかゆは私が取り外すレンズキャップを受け取るために手を差し出してくれる。私は写真を撮りながら、「ふさわしいタイミングで手を差し出してくれて、撮り終えるのを待ってくれている」と意識するし、さらに「どちらかといえば、私の行動におかゆが合わせてくれる場面が多いな……」と考え始める。

これまで自然とうまくいっていたあらゆることにいちいち反応し、説明をつけるようになってしまった。加えて、おかゆが私をどう思っているのかも、つい気になってしまう。それは、映像で自分のふるまいを見ていて、おかゆを嫌な気持ちにさせていないかとたまに不安になるからだ。おかゆは嫌なことは嫌だと伝えてくれるが、おかゆに過度に気を遣わせてしまっている場面も多いと思う。他の人に映像を見せたというより、自分自身に映像を見せたことによって、おかゆとの「2人だけの世界」は崩れてしまったのかもしれない。

おかゆに限らず、他の人といるときにも同じようなことが起きている。これまで「自然とあたりまえに」できていたことを「意識的に」やるようになったし、周りからどう見えるのかを過度に意識してしまう。そのせいか、日常生活が少し窮屈に感じられることもある。

卒業プロジェクトを始めるとき、おかゆとの関係性が変わることもありえると考えていたが、関係性が変わったというよりは、おかゆと一緒にいるときの私の意識が変わった。スマートフォンで日常的にカメラを向けられるようになって、他者から見た自分を把握できていると思っていた。しかし、それは断片でしかなく、私は「思っていた姿と異なる自分」にまだ追いつけていないのだと思う。その意味で、私は〈2人を俯瞰して見ている〉のではなく、〈他者と向かい合う私を俯瞰して見ている〉のかもしれない。

--

--