みせる

Yuri
ただいまを言いたくて
Dec 20, 2022

長らく小論文を教えているせいか、筆者や政治や一般論に対する主張を並べることはできるものの、結局のところその文章は大学の合否を決定するための基準にしかなり得えず、それが大学から外へ出て行くことはない。だからこそ、小論文を書く時に明確に浮かぶのは、何百枚もの紙が積み重なるデスクで顔を顰めながら、目の前の解答用紙を読み込む教授たちの姿だ。その本当の実態を私はきっと一生知ることはないけれど、それ以上に自分の文章を読まれる場面を明確にイメージできたことがないのは紛れもない事実だ。

私たち大学生は、自分の文章が誰かにジャッジされることに慣れすぎている。いつからか文章を書くことを求められるようになった時から、それが誰かと比較され、出来を評価されることを嫌でも実感せざるを得ない状況に置かれてきた。文章を読む相手に、成績や進級などといった少し先の自分の未来が握られている状態で、言葉を向ける対象はどうにも思い浮かびづらい。名目上は評価者以外へと視点を向けながらも、実際はそれを読むひとりの人間に評価されることを期待している。そのような中で文章を書いてきた私は、ただ評価の軸に迎合するだけで、自分の言葉をどのような他者に届けたいのか、多様な他者からどのように見えるのかという思いや視点をむしろ持たず、楽をしていたところもあった。

それでも文章を書くことが好きだと思えたのは、そこに誰かから評価されること以上の価値を感じていたからだと思う。「今ここ」以外の何かに発想を飛ばしながら自分自身の言葉を書ける喜びは私を励ました。その言葉が祈りやお守りになって、現実を違ったように捉えることができるからだ。そして、その自分を励ますように書かれた文章が、実は他者にも影響を与えていたりもする。恥ずかしくもあるけれど、自分が書いた文章が知らずのうちに誰かに記憶されていたり、影響を与えていたりすることを不意に知ると、また違った活力が湧いてくる。

現代社会で、評価軸から脱して自分の行為を価値づけることは難しい。そして、一度自分の中に内面化された評価する/されるという関係性から逃れることも同時に難しい。しかし、そのような軸の外側に表出するものをなるべく大切にしていきたいと思う。すぐに届けたい誰かが出てくるわけではないけれど、次第に自分の行為がそのような評価を脱した外側で、価値付けできるようになるはずだから。

私の卒プロの文章には「明確な誰か」という宛先があるわけではないけれど、きっとそれは何かをレプリゼントする言葉であるはずだ。これは私の声であると同時に、似た境遇にいるあなたの声でもあるかもしれない。その可能性を頭の片隅に置くことで、文章の書き方は少しずつ変わる。自分が分かればいい文章から、誰かに分かってほしい欲しい文章になる。その変化は確実に大きいと思う。

私には、関わりのある人、身の回りの人に知って欲しいと思えることがある。それは、「みせる」というより「一緒にみる」という感覚に近い。私の経験を誰かに伝えたい、というよりも、私の経験が誰かの経験と共鳴してより豊かになっていったら良いなと思う。実は同じように、この文章も私にとっては過去の整理や現状の把握であると同時に、来年卒プロに取り組むあの子の励みにもなって欲しいと願っている。『ただいまを言いたくて』は、創刊当初は自分の卒プロの経過を書き記すメディアだったが、今の私自身の位置付けは少し違う。これからプロジェクトに取り組む中で、様々なことで悩み、葛藤した時に、少しだけ思い返して読んでほしい。そんな文章を書いてきたと今は感じている。

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