別れる

Yuri
ただいまを言いたくて
Feb 20, 2023

このメディウムを月に一回書き続けるという行為はなんだか不思議だった。読んでくれる人がたくさんいるわけではないけれど、お互いのコメントが盛り上がったり、たまに感想を言ってくれる人がいたりと、うっすらと誰かと繋がって何かが動く音が小さく聞こえた。始めたあの日から今日までのお題は決まっていて、「出会い」から「別れ」まで、引かれたレールの上で場当たり的に文章を書いてきた。毎月次のテーマはうっすらと意識はしているものの、創刊当初に決められた綺麗な流れに沿って自分の今を描き出すことは難しく、締め切り当日に書きなぐる形で今日まで続けてきたように思う。だからこそ、自分にとって「別れ」というテーマはなんだか大それたものに感じてしまう。始めた時に感じた壮大な時間の流れは、今でも馴染まない。

去年の秋から展示の準備が始まり、みんなで足並みを揃えていく中で「『ただいまを言いたくて』ってどういう意味なんですか?」という言葉を何度か聞いた。そういえば、タイトルを決めた時も、言葉の長さがちょうど良かったり、雰囲気的にその時の状況に当てはまっていたりしただけで、「意味は次第に明確になればいいね」というような決まりきらない何かを抱えたままだった。そして今でも、その時決めた雰囲気のままその質問に返答している。ただ、その曖昧さがすごくちょうど良かったように思う。馴染まないからこそ、そこに自分を当てはめて考えられる。それは可能性と言えるだろうか。

私の卒業プロジェクトで選んだ「ケア」というテーマも、同じ卒プロを進める4年生やこれまでの先輩方のプロジェクトに比べてものすごく曖昧で、定まりきらない何かが常にまとわりついているようだった。最終成果として文章を書く中でも、これが最初に定義した「ケア」と呼べるのかどうか、お互いのエピソードがどのように繋がりを持っているのか、というゆらぎやほつれが度々見え隠れするように目の前に現れた。ただ、そのテーマの曖昧さや不確かさが今でもどこかで渦巻いていることが、不思議と終わりを実感させない永続性を実感させる。そして、このメディウムもまた、今も抱え続けている曖昧さやよく分からなさが消えない限り、私の中で生き続けるものなのだろうと思う。

「別れ」という言葉を聞くと、そこには必然的に時間の流れというものを感じざるを得ない。出会いがあって、別れがある。それはもはや当たり前のことだが、果たして私たちは、そのような始まりがあって、終わりがくるというような直線的な時間軸の中でしか生きられないのだろうか。同じような道を何度も辿りながら、自分が歩いた形跡を長い一本線ではなく、幾重にもなった太い線として描くことはできないのだろうか。

私がこの卒業プロジェクトで取り組んできたことは、自分のこれまでの経験を「ケア」という視点を持って書き起こしていくことで、その経験に新たに出会うことだった。様々なものがものすごいスピードで消費され、忘れ去られていく世の中で、これまでの経験や出来事に静かに目を向け、そこに新しい視点を加えていくことで、過去を新しく経験することができる。その新たな記憶が他のものと繋がっていくとき、始まりと終わりの連続ではない時間軸をふと感じられるような瞬間があった。

別れではなく、出会うことを繰り返すように時間を過ごしていきたい。たとえ、「別れ」が訪れたとしても、学び続けることによって自分の中でその経験に新たに出会い直すことは可能である。そのような行為の連続によって、私のこれまでの経験が太く描かれていく。曖昧さや不確かさ、揺るぎやほつれによく目を凝らして、ただどこを求めるわけでもなく何かを答えを出そうとするのでもなく、そこにたゆたいながら出会うことを繰り返すように。

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