別れる

私と卒プロの「別れ」はいつだろうか。着実にその時は近づいているのに、まだ曖昧さを含んだままだ。大学に最終成果物を提出した日、展覧会の最終日、あるいは、お世話になった人たちに成果物を手渡した瞬間かもしれない。

私が『ただいまを言いたくて』で最初に執筆した「いる」では、別れの瞬間について書いていた。最終回のテーマを意識していたわけではなく、ほんの偶然だ。

別れの瞬間は、いつもあっけなく感じる。最寄駅にある居酒屋で2時間ほどご飯を食べてから、改札前で別れた。半日も一緒に作業していたのに、あんなにケラケラ笑いながらお酒を酌み交わしていたのに、「じゃあ、またね」の一言で彼女はホームへ向かい、私も家へと歩き出した。やっぱり、この突然の状況の切り替わりにどうしても慣れない。

これは、おかゆとワンピース製作をした夜の話だ。またいつでも会えるとわかっていても、もう少しゆっくり別れを惜しみたくなる。別れかたを大切にしたいと思うのは、その後の関係性を強く意識するからだ。また再会したいし、もう会えないかもしれなくても、心の中に気持ちよく残り続けたいと思う。

1月に研究会での最終発表を終え、2月1日に最終成果物を提出し、下旬に展覧会を迎える。「最終」という文字に囲まれたこの1ヶ月間は、私に別れを強く意識させた。今この瞬間も、最後の『ただいまを言いたくて』を執筆しているわけで、展覧会に向けた慌ただしさのなか、心が卒プロと別れる準備をしている。大学への成果物提出の数週間後に展覧会が開催されるという時差は、別れを惜しむ期間としてちょうどいいのかもしれない。大学に提出すると、少しだけほっと息をついて、すぐに展覧会へ向けて動きはじめる。大学への提出を節目として一度「終わり」にした卒プロを再度考え直し、最終仕上げに取りかかる。そのなかで、先述した「いる」で書いたような「グラデーション」を経験している。

展覧会は、研究会で最後に取り組む活動だ。オンライン開催も含め、3回目の経験となる。これまでは研究会内、限られた友人との間でしか共有してこなかったプロジェクトを、展覧会ではより「外」へ開くことになる。これまでの文脈を共有していない人へ説明するなかで、私はあらためて卒プロを整理し、再理解していくだろう。

展覧会まで、2週間をきった。この原稿が公開される頃には、あと数日というカウントダウンになっている。互いにプロジェクトを見守ってきた研究会のメンバー、気づいたら約3年間もお世話になっていた加藤先生と、ひとつの空間をつくりあげる。そこに、学生生活をともにした友人、お世話になった家族など、たくさんの人が来てくれる。とても幸せなことだと思う。

1年間取り組んだプロジェクトが、触れるかたちとなって手元を離れていく。ずっと隣だった友だちが席替えしてしまうような、毎日使っていたお気に入りのペンを失くすような、「ちょっぴりさみしい」気持ちになる。冊子に収まった私の卒プロは、来場者に連れられて散っていく。誰かの本棚に、どこかの机の上に、おかゆの部屋に、加藤先生の「箱」*に。かかわってくれたすべての人たちと、冊子を介してつながり続ける。冊子に限らず、ワンピース、DVD BOXと、卒プロを思い出し、語る手がかりはたくさんある。冊子やDVDにまとめられた卒プロは、かたちとしてそこにあり続けるのだ。そう思うと、卒プロとの「別れ」は訪れないのかもしれない。強いて言えば、一旦、「またね」と言うくらいの感覚でいるのがいいのかもしれない。この経験は私のなかにも残り続けるし、私自身のコミュニケーションへの関心も変わらない。私と卒プロはいつだって「再会」できるのだ。

*加藤先生のもと取り組まれた歴代の卒業プロジェクトの成果物が入った箱。私は加藤研加入当初からこの箱に自分の集大成を残して卒業することを密かな目標としてきた。

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