書く
去年の秋、札幌から帰ってきた直後に書き始めた日記がいまだに続いている。札幌においてけぼりになった気持ちをなんとか東京に引き戻そうと始めた日記だった。
私にとって「書く」ことは一種のセラピーのような作用がある。昨日も今日も、考えすぎてしまったことをだらだらと吐き出すように書く。そうすれば、次の日に全てを持ち越さずに済む。出来事を見えるように保存しておくと、記憶を手放せる気がするのだ。
研究会に入ってから、フィールドワークにおける記述の重要性を知り、意図せず身につけてきたクセが案外役に立つことを知った。誰のためでもなく、私のために始めた記録が思わぬところで活きた。
強い意志がなくとも、記録するようになったのはいつからか。たしか、高校生の時だったと思う。札幌から横浜に引っ越し、東京の高校に通い始めるという大きな変化の中で、自分の内にとどめておくにはしんどい歪みを抱えていた。いつか笑える日が来ることを切に願い、日記を書き続けた。日記を書いているときは、わかりやすく書く必要もなかったし、誰にも邪魔されなかった。
それまでは、誰かに伝えるための「書く」しか知らなかった。SNSやブログなど、読み手の存在が前提のメディアに沈む中で、読み手を想定しない「書く」はあまり意味のないものだと感じていた。しかし、環境の変化によってどうしようもなく、切実に書くことに頼ることとなった。
言語とヒューマニティという授業で「書くこと」に関する講義があった。加藤典洋の『言語表現法講義』を引用し、「書かれたものではなく、書く行為に意味がある」という話だった。「書く」について考えるとき、すでに書きたいものがあってそれをどう表現するかということに着目されることが多いが、書く行為自体の価値を考えるという内容だ。
また、大沢敏郎の『生きなおす、ことば』の「文字の読み書きを身につけると同時に自分という人間の読み書きを明らかにする」という一文が引用されていた。書くことは自分自身の内面に気づくことであり、過去の体験を名づける意味があるとのことだった。
たしかに、書くことで出来事に紐付いた感情や考えが構造化され、気づきが立ち現れることがよくある。書きながら考え、書くことで新たに考えたいことが湧いてくる。その連鎖が心地よく、書くことに頼っているのかもしれない。
日記を習慣化している私のような人は自分史を書くことも難しくはないと思う。しかし、普段から書き慣れていない人々も多いはずだ。そして、書く機会のない人々がほとんどだ。そんな人たちの個人史、つまり生活史を私が代わりに聞き取り、残していきたいと感じている。
1970年代に「ふだん記」として個人史の執筆を全国的に広げた橋本義夫は「下手に書きなさい」と訴えた。このハードルの低さは生活史の聞き取りにおいても転用できるはずだ。聞き取りや編集に関する少しのレクチャーを受けさえすれば誰にでも行うことができる。無名の人々の語りを誰かが聞き取り、誰かが残す。その営みは意味のあるものであると手応えがあるが、なかなか言葉にできていない。これから私が聞き取りを行う中での実感をもとに、生活史を残す意義を問い続けたい。