書く

Yuri
ただいまを言いたくて
Aug 20, 2022

月に1回のこの文章を書くのも、もう気づけば9回目になっていた。決まったお題で、それも一つの単語から自分なりにテーマと方向性を定めて文章を膨らませていくことは、思っていたよりも難しい。終わりは着々と近づいているのに、私にとってはまだまだ慣れない月一のタスクだ。今月は「書く」がテーマだが、書くことに至れるまでの経験を獲得できたのかといえば、よく分からない。

去年の冬頃、言葉について異常に書いていた時期があった。言葉について、異常に知りたい時期があった。言葉を使って言葉について知って、言葉を使って言葉について書くことが、その時の私にとっては全てを超越する行為のように思えたのだろう。何もお題を与えられなければ、私は永遠に書くことについて綴っていられる。そのくらい、書くことに興味があったし、そのことで不思議と満たされている自分もいた。

私が思う書くことの素晴らしさは、自分が自分を超える瞬間をおのずと生み出せる点だ。なんとなく頭で考えていることがあって、それについて書いてみると、見えていなかった小さなことに気付いたり、思いもよらぬ思考に至ったりする。書けば書くほどに新しい場所へと到達できて、書き終わったときには、書く前とはまるで違う自分がいるような気さえする。この書くことでしか得られない快感が、自分自身を励まし、突き動かす原動力になっていることは確かな実感としてあった。そして、こうした自己満足の繰り返しが何よりも必要になるときが私には度々ある。

誰かと話したり、誰かの文章を読んだりすることで、自分の思考が広がり深まることはたしかに多くあるだろう。そしてその感動は、きっと多くの人が知っている。ただ、書くことの感動について語られることは案外少なく、それは「整理できる」とか「残しておける」などといった効用の範囲に留まっている気がする。そこには、一般的に読むことよりも書くことのハードルの方が高く、またこの行為がひどく専門性を帯びていると勘違いされやすいことが原因にあるのだと思う。でも、書くことが蔑ろにされれば、読むことの感動が減ることも確かだ。読む感動があるからこそ、書くことの素晴らしさにも気付けるし、その感動がより一層特別に思えたりもする。いい文章を読むと、自分も何か文章を書きたくなることもある。読むことと書くことは相互補完的な関係性だからこそ、どちらの感動も同じように経験し、共有できたらいいなと思う。

卒プロを考えるにあたって、最終的に文章にしたいという方向性だけは自分の中で真っ先に決まっていた。それは、書くことで到達できる思考が、自分自身の経験を超え、既存の考えを超越できると信じていたからに他ならない。その場では何か深い思考に到達できなくても、後から文章にして整理してみると、新しい発見が次々と生まれてきたり、自分の思考が深まっていく感覚がある。

フィールドワークは、繰り返し現場に行くことや気づきを求めてつぶさに観察する態度が非常に重要になると思う。ただ、そういった経験の量を増やすことと同じく、書くことそれ自体に真摯に向き合うことが、意外にも新たな発見を生み出し、概念を再構築していくきっかけになるとも感じる。自分の経験や直感を過信せず、更なる発見を求めて書く行為を続けていく態度こそが、真にフィールドワークの価値を高めることに繋がると思う。

この文章を書く回数も、もう片手で数えられるほどになってしまった。焦りはもちろんあるけれど、経験を求めて行動を繰り返すよりも、小さな経験から思いを巡らせ、思考を深めていく作業をより丁寧に行なっていきたい。

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