考える

Yuri
ただいまを言いたくて
Oct 19, 2022

4年生最後の履修申告期間があっという間に過ぎていった。Twitterで情報収集する時間も最近はめっきり減ったが、幸運にも1年生の時に立てた計画通りに私の4年生の秋学期は始まろうとしている。履修申告ページには、これまでとった授業の一覧とその単位数、そして今期取得予定の単位数との総合計が記載されていた。便利な機能だと思った。思い返せば、この4年間で学事システムはどんどんと新しく移り変わり、毎回便利に更新されていった。その変化についていくために、コロナ禍で気軽に友達と話せない状況下で、必死にSNSで情報収集をしていたことを思い出して懐かしい気持ちになる。

履修申告ページには、私がこれまでとった授業の一覧と単位数124という数字があった。この数字を見ても、これといって達成感は感じない。入学時、配られたカリキュラム案内の冊子に書かれた卒業単位数がずいぶんと大きなものに感じ、想像すらできなかった4年生という未来の自分が、まさにこの自分であるという事実を未だに理解しきれないでいるからだと思う。ただ、人生とはこういうものだと思えるようになったことがこの歳月の重みを語る一つの手がかりかもしれない。そして、過去を懐古して自分の至らなさをこうして語ることの煩わしさもだんだんと理解してきた。

この124単位とともに過ごした数年間を経て、私はようやくSFCで得た思考を客観視できつつある。まずこの大学では、多くの人が成果に追われている。問題発見、その解決が何よりも重視され、実学を尊ぶ風潮があちらこちらに流れている。それぞれが眼差す価値観は違えど、最終的には結果を残さなければならないという主義主張が大きな影響力を持ち、あらゆるものが加速的になったり、便利になったりする。ここでは、思考力とは目の前にある課題に対して認識し直し、仮定し、実行し、解決するといった目的のための手段として使われる。そして、そうした思考力を持った個人の自律性こそが世間を一歩進めていく原動力になるとされ、そのような有用性の高い自我を確立することこそが自分自身の価値を高めることだと考えるようになる。私自身もそうした価値観に影響を受けながら、実力や結果といった強者の視点で物事を考えるようになっていった。しかし、ふとした時に垣間見える、そうした輝かしくて残酷な世界の裏側にある弱さや脆さに怯えるようにもなっていた。

そんな凝り固まった思考は、研究会に入り、同じ悩みや葛藤を抱える友人たちと共有することで、次第に変化していったように思う。グループワークや研究会後の少しずつの会話の積み重ねが、自分自身を素直にさせ、苦しさから解きほぐしてくれた。次第にできたお互いの情緒的、思想的な結びつきから、本を紹介したり価値観を共有したり、そんな時間を過ごすようになった。そこからまた一緒に悩んだり、迷うことをむしろ好んで行い、私たちは毎回暗くて先の見えない海に自ら身を投じながらも、結果としてそこで生まれた繋がりを頼りに少しずつ支え合いながら日々を過ごしてこれたのだと思う。だからこそ、思考することとは目的のための手段ではなく、迷ったり悩んだりすることそのものだと最近は強く思えるようになった。何かに生かすための思考よりも、みんなで嘆いて彷徨って、終わりの見えない議論を永遠と繰り返すその時間の方が、何倍も深い海に潜っていられる気がする。私が4年間で得た一番の変化は、そうした悩む力そのものと、その横で同じように悩める友人を持てたことだと思う。

フィールドワーク展が終わった後、みなとみらいの夜景を背にして語った会話を今でも鮮明に覚えている。あの時次々と宙に浮かんだ、くだらないけど切実な私たちの悩みはきっと今でもどこかに存在している。だけど、それを抱えながら、迷いながら思考することの強かさもまた、確実に私たちの中に存在していると思えるのだ。

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