考える

『燃ゆる女の肖像』の監督セリーヌ・シアマは、孤島や森など女性だけの空間を作ることでその中で生まれる女性同士の絆を描く。彼女はその手法についてインタビューで「女性に課される制限をごまかすことなく現実を描きつつも、彼女たちに休息を与えたい」と答えている。女子校はまさに一般社会から隔絶された孤島だ。海を挟んでいたとしても大陸の管理のもとで生きていることには変わりがないが、その影響を知りつつもやはりここは孤島。大陸の文化を阻害しない限りにおいては別の文化を築くことができる。場所に合わせて自然と別のふるまいをするものの、大抵の場合阻害するほどの文化などないと思われているため、ただ孤島の中でそれを謳歌するだけで十分だった。その二つの文化があまりにも相反する物だと気づくのは大陸に戻ってからのことだ。

接客業をしていると、あらゆる場面で自分は女なのだと思い知らされる。500円でおしゃべりの相手をしてくれる場所だと思ってる人、物を渡した隙に手を触ってくる人、しつこく連絡先を聞いてくる人、あとは単に高圧的な態度を取ってくる人。4月に長年勤めてた男性社員二人が辞めてから、私とあと2人の女性スタッフが中心を担うようになった。そこからというもの、圧倒的にお客さん関係のトラブルが増えた。いつだったか3人でそのことを話した時に、今までの男性社員は二人とも強面だったから舐められなかったのだと言い合った。私たちがどれだけまともなことを言ってもそもそも舐められているからどうしようもないと。その中で一人が言った言葉を思い出すたび、私は何度も泣きそうになる。「男と女って、なんか、全然違うじゃん。そういうのってあるじゃん。○○くん(柔らかい雰囲気の男性スタッフ)みたいな人もいるけど、やっぱり、それでも、違うんだよね。」そう言いながら、その人はどんどん声が小さくなっていった。それまでは「本当にそう!マジ最悪!」と言い合っていたのに、その言葉を聞いた私ともう一人も黙ってしまった。そこで私が「それをミソジニーと言って〜」と続けることもできたし、そこで立ち上がるのが力強いシスターフッドだろう。しかし、私たちはただその悔しさを逃すことしかできなかった。

考え続けることは一つの抵抗の現れだと思う。しかし、規律の中で生きることしか教えられず、生きるためにひたすら働かなければならない社会では思考する余裕が奪われていく。考える/考えるための材料があるということ自体特権になってしまっていることがとても悲しい。「どうせ変わらない」という言葉を諦めの文句としてよく見かけるが、実際は「もう疲れた」なのではないかと思う。抵抗の声が届いたと思ったのも束の間、すぐに権力のものになってしまっている現場を何度も目撃しながらポジティブな言葉で鼓舞していくには限界がある。奪われてしまうことに怯え、怯えることに疲れ諦めながら、それでもその事実を手放さないこと。そうやって抵抗していくしかない。

3人で悔しさの中で黙ってしまったとき、そんな現実があることがひたすらに悲しかったが同時に少しだけ慰められた。それはその場にいた誰もが自分たちの身に起こっている事実をぐっと手元に置いていたからだと思う。場の静けさは、私たちの中でそれを確認しあう機能を持っていた。支え合おうとするシスターフッドではなく、どうしようもなくそこに存在している紐帯だ。これまで考えてきたことが現実の生々しさをもってあまりにも無力に感じるとき、私たちはただ確認しあうことしかできないのだと思う。

海に浮かぶ孤島は休息の地なのだろうか。私たちは考えることに疲れても、考えることをやめることはできない。考える余裕はないのに、それでも生を削り取りながら考えてしまう。なぜなら、大陸の文化はあらゆる様相を持って目の前に現実を突きつけてくるからだ。諦めたいと思っても休みたいと思ってもそれは止まらない。それが続く限り、私たちは考え続ける。しかし、もしそこで、その状況を確認し合うことができたなら。それぞれが手元に置いた現実を共有するとき、それは解放という名の休息ではなく、むしろ現実が一番大きく迫る時だ。しかし同時にそれまで吹き荒れていた強風は止み、少しの間だけ静寂が訪れる。

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