考える

9月下旬、夏休みもあと少しというときにふと思い立ち、私と同じく卒業プロジェクトに取り組んでいるさくらに会うため、北海道に行ってきた。さくらは「札幌の人々の生活史」をテーマにしていて、夏休みの約2ヶ月間、札幌に滞在していた。さくらが拠点としているすすきのの街を案内してもらい、行きつけのバーやジンギスカンのお店、古びたビルの中にある定食屋さんなど、ただの観光客としてはなかなか見つけられないような場所へ連れて行ってもらった。その余韻に浸りつつ書き連ねたメモを見ながら、この原稿を書いている。普段文章を書くときは、スケッチブック(加藤文俊研究会では、考えをまとめたりメモしたりするためのA4サイズのスケッチブックが配られる)にあれやこれやと考えを巡らせながらメモ書きし、パソコンで文を組み立てて完成させている。今回のメモ用紙はすすきののホテルオリジナル用紙のため、少し新鮮な気分になる。

高校生のとき、ある授業の課題で15000字のレポートを課されたことがある。いち授業の課題にしてはあまりにも多い字数指定に嘆いていると、先生に「レポートは、スマホで指を滑らせるよりもパソコンでカタカタと打つほうが捗るよ」と言われた。理由を聞くと、「スマホには娯楽の要素が大きく含まれているのに対して、パソコンは(高校生のうちはとくに)主に課題のために使うから」だった。たしかに、スマホとパソコンでは、使うときのモードが変わる。実際に捗るのかはわからないが、パソコンのほうが「やるぞ!」という気にさせてくれる。振り返ると、400字詰めの原稿用紙の上で鉛筆を走らせていた頃が、いちばん集中して考えるモードになれていたように思う。「考えて、書く」以外の用途がないからだ。

自分が集中して考えるモードでいるとき、ただ頭の中で思考することもあれば、書いたり話したりを何度も繰り返して結論に辿り着くこともある。考えることと書く、話すことは密接につながっている。というより、考えていないと書けないし、話せない。たとえば、この『ただいまを言いたくて』は、原稿の執筆を通して卒業プロジェクトについてあらためて振り返り、自分の理解の程度を測る機会になっている。グループワークに取り組むときは、自分でひたすら考える時間とみんなで話しながら考える時間を行き来して、考えをより深めていく。書くにせよ話すにせよ、身体の外に出してみることが大切なのだと思う。

話しながら進めていくグループワークに対して、今私が取り組んでいる卒業プロジェクトは基本的に1人で進めていかなければならない。ときどき、方向性や自分の考えは合っているのだろうかと不安になる。もちろん唯一の正解はないし、私自身の興味、関心にもとづいて進められていればいいのだが、不安は常につきまとう。今回歩いたすすきのは、数ヶ月前さくらにGoogleのストリートビューで案内してもらったことがある街だ。すすきのでさくらとプロジェクトの話をしていて、生の現場を知ったからこそ一緒に考えられる事柄があるのだとあらためて感じた。卒業プロジェクトは1人で取り組まなければならないが、独りではない。現場を知り、一緒に考えてくれる友人がいる。私自身、扱っている映像を見せることで、生に近いかたちで現場を知ってもらえるように意識してきた。その一方で、春学期は「1人でしっかりと進めていく」意識を強く持ちすぎてしまっていた。卒業プロジェクトをグループワークの対極として捉えてしまい、複数人ではなく1人だという意識が働いてしまったのだと思う。周囲の人に相談して考える時間と1人で向き合い考える時間を行き来するという点では、グループワークと同じだ。秋学期は書くだけではなく、もっと友人やメンターの加藤先生と話す場を設けたい。

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