触れる

私が通っていた中学校には、生徒を叱るときに必ずと言っていいほど紙を折る先生がいた。「この前も言ったけど、授業中は関係ない物をしまって…」と、何度も口にしてきたであろう言葉を放ちながら、余ったワークシートを折り続けていた。先生を怒らせるのは毎回のようにやんちゃな男の子たちだったけど、注意しなかったクラスメイトも連帯責任だから、授業を中断して全員が叱られることが常だった。あるときから、私は先生の口から放たれる言葉よりも、手先から生み出される創作物のほうに意識が向くようになった。その創作物は、ときに折り鶴で、ときに延々と半分に折っただけのものだった。ただ紙を折っているだけに見えて、実はなにかを暗示しているのではないかと、当時の私は密かな期待を抱いていた。

普段の生活のなかで、つい物や身体を手でいじってしまうことがある。ひとりで考えごとをしているとき、友人と話しているときなど場面はさまざまだが、ほとんどが無意識の動作だ。私がよくやってしまうのは、話しながらいつも小指にはめている指輪を触る、必要ないのに頻繁におしぼりで手や口を拭く、話し終わるたびにグラスを口に運ぶ、などだ。話の間をとっているのか、沈黙が気まずいのか、自己をさらけ出した後の恥ずかしさなのか、理由もきっとさまざまだ。無意識に手を動かし始めてしまうものの、動作の途中や終了後に「手が動いている(いた)」と自覚することもある。

卒業プロジェクトの一環として行なっているワンピース制作の場面で考えてみると、手は基本的にずっと動いている。あるいは、ずっとなにかに触れている。本を指差しながらワンピースの型を話し合って、鉛筆で紙に線を引き、ハサミで布を切って、ミシンで縫う。制作過程を記録した映像を見てみると、おもしろいことに会話のために作業の手が止まることはほとんどなかった。一緒につくった友人とは数ヶ月ぶりの再会で積もる話がたくさんあったのに、私たちは口よりも手を動かしていた。それは、私たちの間で「今日中にワンピースを完成させる」という目標が共有されていて、それが第一優先だと2人とも認識していたからだと思う(もちろん、ワンピースをつくるという慣れない作業工程を前に、集中する必要があったという側面も見逃せない)。そのなかでもやりとりされていた会話に着目すると、作業工程に関する確認やちょっとした近況報告に加えて、小学生の頃に模造紙でポスターをつくった思い出といった、その場にある物に関連する話題もあがっていた。数年かけて互いに多くを知り合ってきたはずなのに、普段とちがうことをするだけで知らなかった昔話を聞くことができた。私たちは人と深く知り合おうとするとき、半ば強引に自己開示をしてみたり、質問を投げかけすぎたりしてしまうことがある。もちろんそれでも互いを知れるけど、一見関係のないような会話や思いもよらない出来事からもその人の過去や考え方を知れるのだと再認識した。

人と話しながらつい物や身体をいじってしまうことと、ワンピース制作のようなある目標に向けて手を動かしながら話すことのちがいはなんだろうか。前者の場合、触れる場所や触れ方がその人の心情を読み取る手がかりになるし、反対に自分も無意識のうちに言葉でない方法で相手に気持ちを伝えている。後者だと、無意識の動作もワンピース制作という状況に包含されるから、心情を読み取る手がかりを見つけにくいのではないだろうか。ずっと布やミシンに触れているから、それが作業の一環なのか、気まずさや恥ずかしさなど別の感情からきている動きなのか見分けにくい。私は卒業プロジェクトで「人と人の間にある行為や物が介在していると、やりとりがスムーズになる」という現象について、「ある行為や物」が私たちにもたらしているものは何かについて考えていこうとしている。もしかすると、この「見分けにくい」というあいまいさが、やりとりをスムーズにしている要因のひとつなのかもしれない。

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