触れる

Yuri
ただいまを言いたくて
May 19, 2022

満員のバスに乗ってキャンパスに向かう。私は大抵、列の歩みが止まっても最後の最後でバスの中に駆け込む。それはいつも、待つことを計算せず、ギリギリで家を出ている自分のせいだった。ただ、それでも全く構わないと思っていた。

春から新学期が始まり、満員のバスに乗る機会が久しぶりにやってきた。いつものように、足が止まっても、とりあえずバスに駆け込む。だけど、いざ人混みの中に自分の身体を押し込むと、他人との近さがとにかく苦しくてどうしようもなかった。仕方がないと割り切って我慢できていた満員のバスが、いつの間にか耐え難いものに変わっていることに気づいた。

コロナ禍で非接触が当たり前になった今、他人に触れる機会は日常生活の中から劇的に減った。コロナが流行し始めた当初は、分散登校や時差通勤が積極的に行われ、リモートワーク、リモート授業も徐々に私たちの生活の中に浸透していった。誰かとの宿泊、食事の機会もめっきり減った上に、店や施設では多くの空間がパーテーションで仕切られたり、誰かが使用したものが即座に消毒されたりと、直接的にも間接的にも、他者に触れることがなくなっていった。その光景は一見狂気的にもみえるが、一方でこの非接触の世界にどんどんと慣れていっている自分もいた。

こうして他者との接触の機会が減っていく中で、私たちは何かを失っていくのだろうか。それとも、何かを得るだろうか。

直接触れなくても視覚や聴覚を通して分かり合える。直接会わなくてもPCを通して仕事ができる、勉強ができる。そうやって、コミュニケーションの手段が誰かとの接触を避けていくことで、一方では便利なサービスや機械が開発され、思わぬ自由を手にできるが、他方では誰かとの関係性を失い、またあったかもしれない可能性すらも手放すことになる。こうして、接触の機会の減少とともに、他者との分断が進んでいくことは危惧されるべきものだと思えてくる。

もっとも、こうした動きは今に始まったことではなかった。かつてヨーロッパでは、中世の時代を経て、「近代的な個人」としての人間像が確立したとき、それは他者からの介入を必要とせず、むしろそれらを不快に思う個人の誕生を意味していた。彼らは、大皿によそられた肉の煮込みをみんなで手を突っ込んで食べ、杯も一つのものを回し飲みすることが当たり前だったという。当時は自分専用の部屋なども存在せず、全ての人間的な営みが誰かとの密接な接触を前提として成り立っていたのだ。

しかし近代化が進むと、確固たる個人の確立に伴い、私たちはより隔たれた空間であらゆる生活の営みを行うようになった。ヨーロッパから波及したこのような文化は、徐々に日本でも広く受け入れるようになり、生活を形どる様々なものやことが、他者との接触をなるべく回避するものへと変わっていった。そして今の社会は、触れる機会の現象とともに、分断が加速する社会になっている。部屋に閉じこもりパソコンの中の相手と会話するだけの生活では、その些細な変化に気づき、気にかけてくれる人はいなくなってしまう。非接触社会における個人化主義の暴走は、逆説的に私たちの生命を脅かす脅威へとなっていくだろう。

しかし、ウィズコロナの世界において人類の接触の絶対量が減ったとしても、他者と触れることの価値は受け継がれていくべきものであると思う。感染したことさえ「その人の行いが悪い」と批判されてしまう自己責任論の風潮が強い社会の中で、誰かと触れ、その中でケアしあう関係性の価値は、決して見過ごされてはいけない。そこから生まれる連帯の中にしか、救えない何かがあることはきっと明白だ。

そのことをはっきりと自覚しながら、変化してしまった生活の中で、他者との支え合いやコミュニケーションについて繊細に考えることが、今多くの人に求められていると思う。

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