触れる

この話題に触れて良いのか、良くないのか。精査しながら、人と会話をしている。

ただ、触れづらい話題にも、触れてほしい時もあるのかもしれない。話題に出ない、声をかけられない、というのは重要な話題を透明化したり、相手への無関心を示すことにもなる場合もある。「部屋のなかのゾウを無視しないでほしい」。まさにそうだと思った。

友人から「なんて声をかけたらいいのかわからないけど、本当に辛かったね」とDMをいただいた。本当にそれだけで、すぅっと心が楽になった。多分本当になんて声をかけたらいいのかわからないから、みんな気を使ってくれてその話を避けると思うんだけど、特に自分の場合は触れてもらえると嬉しかった。

「触れてもらえると嬉しかった。」と表明することヘのしなやかさに感銘を受けた。思ってはいても、なかなか公の場で言えることではないと思う。

中学生の時、毎日のようにお世話になった水泳のコーチが亡くなった。10年以上続けた水泳を辞めようとしたとき、「さくらにはインターハイに行ってほしいから、辞めないでほしい」と、唯一引き留めてくれたコーチだった。ショッキングな連絡を開くとき、急に心臓の辺りに衝撃を感じ、足取りが重くなる。渋谷の人混みの中、連絡をくれた友人への返事を考えた。

自分の触れづらい話題を誰に、どのように言うのか、未だによくわからない。この話も初めて書いたし、未だに母親にしか話せていない。

別に話さなくたって良いのだけれど、自分の外側に吐き出すことで、物語が再編成され、楽になる感覚を知っている。誰かに語ることで、悲しみが成仏するような感覚がある。誰かに聞いてほしい、という気持ちも無視できない。だからと言って、私が語られる側だったらうまく声をかけられる自信はない。そんなことを行ったり来たりして、黙ってしまうのが常だ。

連絡が届いた夜、友達の誕生日を祝う予定があった。ハレの場で話せるわけもなく、機嫌良さそうに過ごし、難なくサプライズを成功させた。帰り道、「うまくやれるのだし、大丈夫なのかもしれない」と思った。こうして「部屋の中の象」を見逃し続けることで、象が巨大化していくのかもしれない。でもその象を認識しているのは私だけなので、そこで共有することに意味はないのか。わからない。

「部屋の中の象」に触れるには勇気が必要だ。ただ淡々と日々を過ごす方が楽だし、触れづらさは時間を経るごとに増す。何か負荷をかけるような話をするとき、自分と相手の非対称性に後ろめたさを感じてしまう。気を使い、使われて生きているはずなのに、自分で消化する選択をしてしまう。自己開示について、あれこれと考えてしまうから、聞き手と話し手が明確に役割分担されたインタビューが性に合っているのかもしれない。

インタビュー中、この話は触れてよいのか、よくないのかという線引きが難しい。思い出したくない過去を思い出させ、話し手の負担になることは最も避けたい。しかし、ネガティブな過去が語り手の強い原体験になっている場合も多い。「言える範囲で良いのですが、」と付け加えつつ、可能な範囲で話を聞くようにしている。

話を聞いていると、語り手が徐々に気づいていくことがある。過去の体験と現在の自分がつながり、本人が納得した言葉として過去の意味づけが語られる。点と点がつながり、物語として語られることに自分が関与したという実感が、むず痒くて嬉しい。そして、語りを通して私を省みることで新しい自分に気づく。その繰り返しで、私が編集されていくはずだ。

--

--