語る

Yuri
ただいまを言いたくて
Jun 19, 2022

研究会に入って、私はたくさんの言葉に触れるようになった。それは学術的な論文や文献を多く読む機会が増えたというよりも、同世代の人たちの文章を読む機会が増えたということだ。思い返せば、大学で同じ学生が綴った文章を読むことはこれまでほとんどなかった気がする。だから、それぞれが書いた多様な言葉は、どれも新鮮で、興味深かった。同じ研究会のメンバーの文章を読むことが、私にとって社会を理解する手がかりになっていることは確かだと思う。

そんな中で、私にはたびたび引っ掛かる言葉があった。それは、「思っていることはあるけれど、言葉にできない」とか「考えはあるけど、上手く書けない」とか、そういった文章だ。私はこれを読むたびに、それはただ書くことから逃げているだけだ、と思った。言葉こそが認識を作るのだから、言葉にできないものは存在しないも同然だ。そう信じて疑わなかった私にとって、「言葉にできない」という言葉は一見重そうに見せかけた軽すぎる発言だと感じていた。

卒プロの第一歩として参加している哲学対話の場では、その名の通り参加者同士の対話によって場が構成される。そこでは、一人一人が問いに向き合い、言葉を紡ぎ出し、対話を通じてお互いに合意できる点を探る。この繰り返しによって哲学対話が成り立つ。このプロセスの中に、私もひとりの対話の構成員として参加した。

しかし最初は、私の言葉だけがその場から浮いているように感じた。ただそれっぽいことを言っているだけで、どこか薄っぺらく、誰かに共感されても、本当に共感してもらえた気がしない。私の言葉に質問が投げかけられると、やめて…と心の中で思う。そういう感覚を何度か味わった。

でもその苦しさは、次第に自分の言葉で対話に参加することを可能にしてくれた。誰かからの借り物の知識や考えは、哲学対話ではなんの意味もなさない。そう感じた時に初めて、自分の普段の言葉は一体誰のものなんだろうか、と疑問に思った。そして同時に、うまく言葉にできない感覚が私を襲った。まさに、私が嫌だったあの言葉が自分の上にどんとのしかかってくるのだ。

しかし同時に、ここにいる全員がそういうある種の苦しさやもどかしさの中で対話をしているのだろうという感覚もあった。一人一人の発言は、あまりまとまっていないし、どこか矛盾しているし、よく考えてみると、さっきと言っていることもまるで違ったりする。哲学対話のすごいところは、参加者のそういう発言を許容するというよりも、むしろ求めているところだ。みんながよくわからない中で、言葉になりかけの言葉を発し、他者のそれに耳を傾け、諦めずに対話を重ねていく。その雰囲気があるからこそ、みんながまとまらない言葉を持って発言をして、時には呟きのようなひとことから、新たな問いや考えが生まれたりする。

哲学対話は議論ではない。誰かと意見を戦わせたり、自分の意見の正しさを主張しなくていい。これまで私は、言葉にならないものの存在を無視することで、同時に自分自身を苦しめてきた。「言葉にできないものは存在しない」という考えは、裏返って、言葉を発しなければ私の存在自体がないものにされてしまう、という焦りになっていた。

現代は、自分の権利を主張し、他者の権利を自らの権利と競合するものであると捉える「正義」を重視する風潮によって、言葉が奪われていく社会だ。言葉にならないことを嫌い、言葉を発することのできる人だけが、生き残れる世の中へと変化している。そう考えると、「思うことはあるけど、言葉にできない」という学生たちの素直な思いは、正しい意見が力を持つ社会での切実な叫びのようにも思えてくる。それは、自分の存在が「ここにいる」ということを主張すると同時に、この息苦しい社会へのアンチテーゼでもあると捉えられるのではないか。

私たちに必要なのは、哲学対話のような、一人ひとりの発言が同じように尊重され、そこにみんながじっくりと耳を傾けられるような場だ。社会がより合理化し、加速し、整理されていく中で、こぼれ落ちた誰かの思いに想像力を働かせ、またそこに共感を生み出そうとするケアの心を持つことが、誰かの語りを引き出すささやかな一歩になるのだと思う。

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