語る

現在受講しているオーラルヒストリーの授業で、上手い聞き手ほど質問が短いと聞いた。相手の「温度のある言葉」を拾い上げ、反復するだけで相手が語り始める。確かにそのような場面に私も立ち会ったことがある。

温度のある言葉から発生する「物語る瞬間」にかなり私は惹かれている。語り手の人生における点と点が語り手によって再構成されていくことに立ち会っているというのがなんだか嬉しい。

語りを聞く場面は多いが、自分自身が語った記憶はあまりない。最近で最も起こりそうな場面は面接だ。ここ数ヶ月の間、面接を十数回する中で、「語る」をしただろうか。体感として面接における発話は「語る」というより「述べる」の方がしっくりくる。元々用意しておいたテキストを相手の雰囲気に合わせて、語尾やテンションを変えて述べているだけだからだ。その場での対話によって生まれたやりとりというのは少ない。

面接はそもそも時間が決められていて、30分以下であることが多い。短い時間の中で、私のことをどれだけ端的に伝えられるか。そして相手によく見られるように振る舞えるかの勝負だ。双方向的にやり取りするのではなく、相手から一方的に質問を投げかけられるという前提があることも関係するだろう。

どうしても、自身の内面ではなく、パフォーマンスに左右されることへの違和感が拭えない。評価されるためのやり取りなのだから、仕方ないのだけれども。

そう考えると「語る」が起きうるのは、相互的なやり取りと、程よい場の緩さが必要なのだと思う。インタビューも面接同様に質問する側とされる側が明確に分かれているが、面接ほどの厳格さはない。面接という状況に置かれると、こちらが質問されている間、相手に質問する余裕はない。100本ノックのように問われた質問を返していくのみだ。

そんな中でも、一度思わず自分でも今まで気づかなかったことをぽろぽろと話したことがあった。今の私と過去の私の間に通る何か、について問われた時だった。「人と人を出会わせるのが好き」という話をしたら、「それはなんで?」と理由を聞かれた。今まで訳もなく好きな友人同士を会わせたり、私の尊敬する大人をゲストとしてゼミの授業に呼び、ゼミ生とゲストを引き合わせたりしてきた。確かにそれに対するモチベーションはあまり考えたことがなかった。とはいえ、人を会わせることに対する猛烈な使命感を感じていることは確かだ。

そこで答えたのは、高校生の時の話だった。私は、高校に馴染めず、学外で友人を作り、放課後だけを楽しみに生活していた。その流れで参加したイベントで、研究に没頭するSFCの学生に出会い、私は進路を決めた。人との出会いで進路、そして人生までもが変わってしまう経験をしているからこそ、出会いのない環境でくすぶっている人を見るとなんとかしたくなるのだ。私では解決できないけれど、私の友人や先輩からならば何かヒントをもらえるかもしれない。

久しぶりに自分から出た「温度のある言葉」だったと思う。パフォーマンスが求められる面接では、自分が感じる温度よりも相手へのウケを気にしていた。その繰り返しによって、自分の中の体温を感じづらくなっていたのかもしれない。

「語る」とは、聞き手にどう見られるかを度外視して思わず熱を持って話してしまうことなのだと思う。そんな語りが語られる瞬間に、できるだけ多く立ち会いたいと思う。

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