読む

先日、竹倉史人著『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』という本を読んだ。宇宙人説や妊娠した女性説などさまざまな説が唱えられてきた縄文時代の土偶について、それまでの説を覆す新説がまとめられた一冊だ。本の始めで「造形文法さえわかれば、土偶は読むことができるのである。つまり土偶は一つの“造形言語”であり、文字のなかった縄文時代における神話表現の一様式なのである」(p.5)と述べられていて、土偶は情報をもった媒体だとされている。そして、土偶を読み解いていくために「必要なのはただ、土偶を製作した縄文人たちの生活に思いを馳せ、先入観を捨て、目の前にある土偶をありのままに観察する“素直な心”だけである」(p.6)とされている。フィールドワークを重ねながら「土偶の正体」を追求していく過程からも、ただ特徴的な見た目から安易に着想を得るのではなく、細かな模様や装飾までも観察して読み解こうとする姿勢が見てとれた(本書では、これまでの説は細かい部分を無視した半ばずさんな考察だと批判されている)。実際にどのような新説が展開されているのかは、ぜひ本を読んで確かめてほしい。

土偶に限らず、あらゆる物や人のふるまいは見かけ以上の情報をもっているし、ただそこにある(あるいは、いる)だけで、周囲に情報を発していることもある。土偶を情報が書き込まれたメディアとしてとらえられるのだとしたら、それを読解できるかどうかは土偶と対峙する私たちにゆだねられる。同じように、物や他者から発される情報をどう読み取るのかは私たち次第だ。以前、恵比寿駅周辺でフィールドワークをしていたとき、壁や看板、電柱などに貼られたステッカーに興味をもったことがある。よく見るステッカーをいくつか選び、それらが貼られている場所を地図上にピン留めして考察を重ねた。いつもは視界に入ってもたいして気にしないステッカーだが、デザインや貼られている場所から、貼った本人が込めたメッセージを読み解けるかもしれない。そう期待していたが、「街のステッカーを読み解くための文法」に辿り着けず、思ったような結果は出せなかった。そもそも、メッセージが込められていると断定できるわけでもない。しかし、そのような隠れたメッセージが街のどこかに潜んでいるのかと思うととても興味深かった。

これまでに触れてきたワンピース製作の動画を見ていても、発話に加えて身体の動きや醸される雰囲気が情報となって互いに影響していることがよくわかる。たとえば、私がミシンで複雑な縫製をしているとき、「これももうめんどくさい作業になっとんなあ」と言って布から手を離すと、おかゆ(友人)が裁縫箱を私の近くに寄せてくれた場面がある。私がまち針で布をとめたいのだと察してくれたのだろう(当時の私は寄せてくれていたことに気づいておらず、後で動画を見返して発覚した)。おかゆは私を読み取ろうと躍起になっていたわけではなく、すべて彼女にとって自然であたりまえの行為だったのだと思う。動画を見ていると、あたりまえすぎて見逃されている行為が日常のなかにたくさんあることに気づかされる。

私たちが「読む」のは、文字だけではない。「文法」を明らかにすれば、土偶や街のステッカーも読むことができる。そして、私たちはいつからか、身体情報を読むための文法を身につけている。私たちは(意図せずとも)他者から発される身体情報を敏感に読み取り、自分のふるまいを調整しているのだ。やりとりのなかで、発話と身体情報が矛盾していて戸惑うこともあるし、わざと遠回しな発話と身体表現をして楽しむこともある。この2年間、テキストのみでのやりとりを余儀なくされることがしばしばあった。オンライン上で顔を合わせられたとしても、限られた範囲の映像からしか情報を受け取れず、もどかしさを覚えることもよくあった。オンラインやテキストのみでのやりとりだと、相手を読み取るための情報がどうしても不足しているように感じられる。私たちは自覚している以上に、身体をともなうかかわりを必要としているのだ。

--

--