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高校3年生のとき、それまでの5年間勤め上げてきた保健体育委員会から図書委員会に転身した。中3と高2の執行年では保健体育委員会の副委員長もやっていたが、ゴタゴタを避けた先に見えたのが図書委員会だった。図書委員会の一つ目の魅力は、他の委員会と違って担当の先生が普段教科を教えてくれる先生ではなく、図書館に行かないと会えない司書の先生であること。その先生は杖を片手にいつもリズムよく歩いていて、クイズ大会で優勝したことがあるらしいという噂が流れていた。もう一つの魅力は、教室に置く学級図書を買いに行くという使命があること。校則の厳しい学校だったため、自分たちの手で外部のものを中に持ち込むという行為が選ばれた人にだけ与えられる魅惑の果実に感じられたのだ(同じ理由で、調理実習に使う食材を近くの商店街の指定されたお店に買いに行くことも一つの重大なミッションだった)。図書委員は放課後図書館に集められ、王座を知る杖の上官に指令をもらう。「教室の棚に入る、大きくても新書サイズの本を買ってくること。2000円以内であれば数は問わない。」

私ともう一人の図書委員は、できるだけ多く買うためにブックオフへと向かった。確かに覚えているのは2冊だけだが、全部で5冊ほど買った気がする。その中の一冊は当時倫理を教えてくれていた、イラストレーター兼バイク乗りの静かな非常勤の先生がイラストを書いている本だった。その本は新書サイズよりも大きく、上官に「あーあ、これじゃあ棚に入らないですよ。」と言われたが、どうしても私たちはそれが必要だったため譲らなかった。棚に収まらないその本はクラスで人気を博し、最初のうちはみんなの机を移動し、いつの間にか棚の上で誰かの荷物の下敷きになった。

一方で継続的に誰かの手元にあったのが、辛酸なめ子の『女子校育ち』だった。「女子100%の濃密ワールドで洗礼を受けた彼女たちは、卒業後も独特のオーラを発し続ける。インタビュー、座談会、同窓会や文化祭潜入などもまじえ、知られざる生態をつまびらかにする。」と書かれたその本には「女子校タイプ別図鑑」という章があり、そこに私たちの女子校も載っていたのだ。「リア充」「モテる」「男子校のテリトリー分け」などの言葉に、「なにこれ!!全然違うじゃん!!!」と笑いながらも、たしかに洗礼とも呼べる、それを経験する前と後では名前が変わってしまうような私たちの生活がどのように記述されているのか興味があったのだろう。気がつくと別の誰かが読んでいた。しかし、ガハハ!と笑ったあとはそれぞれが気まずそうに本棚に戻していた。私もそうだった。今思い返すと、図鑑と名付けられた項目があるように、社会からまなざされる女子校を”女子校ノリ”でコミカルに描いていたからなのだと思う。しかし、私たちの”女子校ノリ”はあくまでも社会から隔離された中で保たれていた。「リア充」「モテる」「男子校のテリトリー分け」は社会の言葉であり、私たちの”女子校ノリ”でその言葉が使われることはほとんどない。だからこそ、女子校について書かれたその本は「ドロドロしてるんでしょ!」という無自覚な悪意とはまた別の「ドロドロした世界の裏側を覗いてみる?」というような、見せ物として差し出されたような気持ち悪さが残った。

厳重な警備が施された館で育った私たちは、内と外を強く意識する。本を買う時もそうだし、共学の人と話す時もそうだ。外との交わりが背筋を伸ばすようなイベントでありながら、出してはいけない内の部分があると分かっている。外の世界には「新書サイズよりも小さい本を買いましょう」なんてルールはないし、そもそもそれがどれだけ重大で名誉ある仕事なのかは理解されない。だから私たちはそれを隠しながら、あくまでも仲良く本を買いにきた高校生として振る舞うのだ。そして本来私たちが探していた本は、そんな内と外の違いをもっと広い世界から記述した本だった。当時はそもそも自分たちの環境について語るという術を持っていなかったが、知りたいという欲求はあった。もしあの時、内側の言葉で語られた本を読むことができていたら私たちは何を考えただろう。卒業した今、ようやく女子校について少しずつ話すようになったが、まだ「あの感じってなんて言ったらいいんだろうね….」と口ごもってしまう。もし私たちが共通の経験を読むことができたなら、きっとそこから私たちの終わらないおしゃべりが始まるだろう。

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