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「チェリーは周りが見えすぎているから、もっと楽しくした方が良いよ」と深夜2時のスナックで言われた。その人は、二、三言話しただけの地元の常連だった。「なんでわかるんですか」。「目を見てたらわかるよ」。とのことだった。あまりにも図星だったので、その後は何も言えず黙り込んでしまった。飲みの場では、こういう神秘体験がたまにある。なぜだか言い当てられたのが忘れられず、頭から離れない。

大人数のいる騒がしい空間で話すことがとても苦手だ。常連さんは「こう、俺は周りが見えなくなるから、すごいと思う。周りが見えるのって」。と言っていた。私の場合は真逆だ。大勢の人がいる中、目の前の人の声や振る舞いに集中しようとすると、ものすごく集中力を消費してしまう。輪に入れていない人や飲み物を探す人、灰皿を探している人、帰りたそうな人など、一人一人の振る舞いを気にしては疲れている。

スナックの 常連は、場の空気を読むことに必死な私に気づいたのだろう。「空気を読む」。「顔色を読む」。「流れを読む」。真意のわからないものを主観で読み取り、意味づけ、コミュニケーションをしている。聞き取りをする際にもそれは変わらない。相手の仕草や声色、目線などに集中して、相槌や質問を重ねる。 特に、相手の語りの流れを阻害しないことに気を張っている。

10名ほどの聞き取りを終えた。聞き取り中、誘導にならないように自分の意見は言わないよう気を張ってきた。しかし、一度、インタビュー中の流れから少し外れ、自分の意見を述べたことがある。「これもう聞き取りというより、相談なんですが」と付け加えつつ、自分の話をした。語り手の話す内容と自分自身の考えていることが重なり、どうしても話したくなってしまったのだ。その後、相手の意見を教えてくれつつ、それに紐づいた相手のを聴くことができた。それまでは語り手が語り慣れているであろう定型の語りが多かった。しかし、私の主観を挟むことで、相手の不定形の語りを引き出すことができた。どうやら、聞き手に徹することだけが良い聞き方ではないようだ。

「オーラル・ヒストリーメソッドの再検討 — 発話シークエンスによる対話分析」(清水・諏訪)では、聴き手側の姿勢だけではなく、話し手と聴き手の相互関係が包括的に検討されている。「聴き手が話し手のよき相手として主観的な意見や具体的トピックを示唆することを『誘導』と解釈するよりも、話し手の学びにつながる意見交流であると解釈する方が生産的である」と述べられている。また、話し手のストーリーに寄り添い、練り上げられた仮説の提示は話し手の考えを引き出すとも主張する。

確かに、前述した状況では、急に新しいトピックを提示したわけではない。相手のストーリーに添った自分なりの考えを述べた結果、「意見交流」となった感覚がある。聞き取りは、相手から一方的に引き出す行為ではなく、相互的なものであると再認識しなくてはならない。

聞き取りの中で自分の意見を述べるということは、程よく能動性を持つということだと思う。相手の顔色を読みすぎてその場に没頭できていなかった自分がいた。場への能動性が足りないことへの「もっと楽しくした方が良い」だったのかもしれない。

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