読む

Yuri
ただいまを言いたくて
Sep 20, 2022

ドバイのダウンタウンが見下ろせるあの部屋で、短編小説を読んでいた。複数の主人公の記憶に眠る美しい過去たちが、他者との会話を通して次々と崩れ落ちていく。私はその本を読みながら、わずか数日の間で薄れていった他者との関係性を回顧し、どこか懐かしい気分になった。物語の中に登場する、ままならない他者たちが愛おしいとさえ感じていた。こんなにも、物語を希求していたことが久しぶりな気がした。

物語というと、私は中学2年生の1年間、朝読書の時間に『僕等がいた』という本を毎回読んでいたことを思い出す。原作は漫画だが、映画化したことを機に小説化したため、朝読書にも合法的にこの本を持ち込むことができた。私はそれを約1年間、毎週木曜日の朝読書の時間を通じて、何周も何周も読み返した。当時は、新しい本を買うのが単に面倒くさく、図書館で借りる本もなんとなくつまらなそうだと思っていた。ただいつからか、私の物語の楽しみ方が変化し、その本を読み返すことが私にとって重要な行為になっていった。

怠惰で新しい本を買うことなく、同じ本を数回読み返すうちに、話の流れやセリフをなんとなく覚えてしまい、時折YouTubeで映画の予告を見て物語の情景を鮮明に思い浮かべるようになった。動画で見た映画の断片を繋ぎ合わせながら、次第に自分の中で壮大な物語を展開できるようになり、つまらない授業をぼーっと聞きながら、朝読んだ場面を皮切りに、自分の頭の中でストーリーをどんどんと先へ進めていった。気付けば授業は終わっていて、その時間は黒板の上の時計を全く気にしていなかったことに後から感動した。その時私は、退屈な授業を最高の時間に変える魔法の方法を知ったと思う。

それから私は、色々な物語を読むというよりも気に入った一つの物語を固着して読む癖がついた。現実がつまらなくなれば、いつでも物語の扉を叩きその世界に入っていけるように、たくさん読み込むことが重要だった。今となれば、自分の中に物語を所有することは退屈な時間を乗り越えるための手段だったと思えるが、当時の私にとっては自分を現実から守ることができる重要な殻のように感じていたのかもしれない。現実と物語の世界をうまく行き来しながら、豊かな感性や曖昧な感情を見つけ出して、もやもやとしたあの日々をなんとか生き抜いていたように思う。

だから私にとって物語を読むことは、自分だけの秘密の居場所を持つ感覚に近い。私はよく、自分がたった一つのこの人生しか経験できないことに虚しさと歯痒さを感じるが、読む行為を通して他者の生を自らの経験として生きてみることで、その有限性は無限に広がっていくと思う。自分が現実に経験していない出来事や感情も、文字を読み、そこに生きる人々の息吹に耳を澄ませ、自分をその世界に投じることによって同じように体験できるような気がする。

この夏、私は知らない土地で一人で日々を過ごした。ただ、その生活の中で、私は他者との関係性の欠落を強く感じていた。それは、ただ単に誰かと接していないというだけではなく、他の誰も自分を他者として見てくれないような感覚だった。街中の標識も、YouTubeの広告も、どれも私を対象にはしておらず、そこにいる以上私は誰の宛先にもなり得ないという感じたことのない孤独と大きな欠落感を感じていた。そうした経験を埋めてくれたのが辻村深月の短編集だった。他者の宛先であるという実感の欠落は、他者から貶められる主人公たちの世界に浸ることで満たされた。誰からも自然にアテンションを得られない現実世界の中で、過剰に他者からの宛先となる主人公の人生を想像して寂しさを埋めた。

意味を必要とする私たちにとって、読むことで通ずる世界の存在は、現実から自分を守る殻にもなり得るし、現実に足りない何かを埋めるものでもある。受け入れられない現実を受け入れられる形に転換していく働きは、物語の癒しであり、喜びでもあると感じた。

--

--