「1年1日」

Ryunosuke Honda
たぶん屋日誌
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5 min readSep 6, 2019

北海道胆振東部地震、すなわち「あの日」から1年と1日が経った。

去年の4月から十勝で生活を始め、半年も経たないうちに思いがけない試練が降りかかってきた。そんな風に云うこともできるかもしれない。

ただ地震発生の瞬間から、僕は「これは全世界的な出来事ではない。あくまで極東の島国の、さらに中心から外れた周縁で起きた出来事なんだ」と直感していた。僕が過去に見過ごし続け、関心すら湧かなかった、すぐに風化してしまう、いくつもの震災の1つになるのだと知っていた。そんな住民でありながら、移住者根性が抜けず、かと云って強烈な帰属意識を感じる場所があるわけでもない、ふらふら右に左に千々に揺れる浮き草の1本として「あの日」感じたことをまとめた。思えばこのように個人的な文章にしてまとめていなかったテーマだった。

築40年は越すであろう家の電力は2日間復旧しなかった。それでも不安を感じなかったのは、幸いにも地方新聞社に勤めていたことで仕事に追われることができたからだ、と今ではよく分かる。

震災当日、あらゆる信号機は止まり、手旗信号で懸命に交通整理する警官が交差点に立った。
出勤停止になった人の多くは、電気の通わない冷蔵庫で「食糧を腐らせるよりかは」と思い立ち、自宅前でBBQを開いた。SNSのウォール上には、控えめな前置き「不謹慎かもしれませんが」から始まる投稿が、そして路上では至る所から煙が上がるさまが見て取れた。そこには知り合いや近所の人たちが不安と祭のような非日常を噛みしめて集まった。

夜になると多くの人はおびえた。誰も知らなかった地上を押しつぶさんばかりの星空に「きれい」とつぶやく人の表情には、決して恍惚ばかりではなくそこには「恐れ」も含まれていた。
僕もまた電気のない家にいるのも、非常発電が稼働し通電している会社に残るのも居心地が悪くなり、夜11時前にどちらからともなく女友達とLINE電話。お互いの状況を確認しあい、市役所の仮設避難所へ一緒に行くことにした。

避難所にはスマホの充電を求める人や食堂の机で突っ伏して気絶したように眠る人であふれていた。友達の仕事は休みだったようで、知り合いの店の手伝いをしていたらしい。動いているうちには気づかないのだ。僕と同じように夜は漠然と不安を感じたのかもしれない。
避難所に指定された市役所11階の窓際で真っ暗な十勝平野を眺めながら「明日には電気は戻るのかなぁ」「いやどうだろう、1週間続くかもしれないって話もあったし」「車のガソリン尽きたら充電もしづらくなるし何より電波が悪いから連絡しづらいよね」とあてもなく話し合う。

そんなキャッチボールを緩慢に続けてしばらくしてから、彼女はそのまま机椅子で寝落ちし、神経が高ぶって日付を超えても寝付けなかった僕は当時取材の持ち場にしていた市役所の高齢者福祉課などを回り、職員の人を相手に朝まで話し込んだ。

夜は明け、早めに起きていた彼女は既にいなくなっていて、後でLINEを見ると「先に歩いて帰るね」とメッセージが来ていた。
その日の夜、つまり地震から2日後には我が家にも電気が戻ってきた。

仕事を通じて「あの日」の声を拾い集めることはあれど、自分のことは疎かになっていた。この仕事をしているとよくあることだ。というよりどの仕事にも「天才外科医 自らの腫瘍は執刀できず」のようなことは多かれ少なかれある。

僕の耳には1週間前に届いたAir Podsをうどん状に耳から垂らし、朝の陽光が入ってこないようカーテンで仕切った部屋で電球1つだけを点け、ノートパソコンに向かってこの文章を打ち込んでいる。電気以外何もないのではないかとすら錯覚する。イヤホンのほつれをほぐしたり断線したり、服の脱ぎ着の時に音楽から遠ざからなくとも済むようになったが、スマホだけでなくイヤーフォーンの充電残量をも確認しなければならなくなった。

僕が生まれ育った街では、Air Podsみたいなのを「シュッとしたモン」と呼び、場合によっては侮蔑のまなざしを向けられる。「LINE Payで、シールでいいのでレシートは結構です」などといった具合にだ。僕の身の回りは「シュッと」していく。僕は新聞社に勤めながら、自分の家に届く紙の新聞が積み重なるのを疎ましく思ってる。

もちろん今でも本は絶対に紙派ではあるし、髭剃りは電動よりシェービングジェルを付けて風呂場で剃って、必ず週に2回は街に出て飲む機会を作ってはいる。大事な人には時々、手紙も書く。

アナログの手触りだとか、電力依存から脱却すべきだとか、再エネ・自然エネで複数電源でリスク分散を、だとかそういうことはメディアに云わせておけばいい。そんなことより、あの日のことを業務上としてでなく個人的な思い出として書けるようになるまでに1年と1日ばかりかかったことに驚きを禁じ得ない。
それを風化、あるいは忘却と呼ぶのに違和感をぬぐい切れないのだとすれば、それは僕と「この土地」との関係性についてのことを指し示しているような気もする。こないだ韓国ソウルに弾丸旅行した時にも、旅行者と土地、同質性と土地、同質性と顔立ち、同質性と言葉、について考えたものだった。同質性を作るのはコミュニティなのか、血なのか、共同体験的な記憶なのか、神話なのか、幻想なのか、逃げられなさなのか、それら全てなのか、それら以外の何かなのか。

2019/9/7

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Ryunosuke Honda
たぶん屋日誌

「道」のつく日本唯一の地域に移住。蓴菜、オクラ甲乙付けがたし。 対面でお話する時、ポテチ成分談義の話題がお好き。