結果より、プロセス

私は、今まで、「人が学ぶ」とは?
 ということを、あまり考えて来なかったような気がします。

学習=勉強と勘違いしていましたね。

早く、速く、効率的に、
 簡単に、すぐに

そして、答えを知っていることが、勉強だと思っていました。

どこで読んだかは忘れてしまったのですが、
 学習とは、すべてを忘れてしまっても
 なお残っているもの。

歩くのもそうですよね、
 言葉もそうです。
 私が話す時にする仕草や、表情もそうですね。

どう学んだか、
 なぜできるようになったか
 なぜそんな仕草や表情をするのか

わからないけど、
 話せるし、
 歩ける。

それが、学習の賜物のようです。

学校の教育、
 パイロットの訓練、

もう飛ばなくなったのに、まだ残っているもの

これが学習したものなのかもしれません。

体の使い方は特にそうですね。

テニスをやっていた時、

最初の頃は、
 フォアハンドは、こうやって、足を踏み出して、
 ラケットの位置は、グリップは

そんなことを考えて、練習をしていました。

ボールを打つことに慣れてくると、自然に来たボールに合わせた足や、手の位置、
 グリップなど必要なことを勝手に調整しています。

いいショットの時に、
 どんな風に打ったのかも思い出せません。

ただ、感じられるのは、
 どんな意識だったかということだけ。

言葉も、表情もそうですよね。

瞬間に反応しています。

それが、性格と取られているのでしょう。

要するに、

それが、学習の結果ということでしょう。

私は、学習と勉強を勘違いして、
 たくさんの知識を知ること
 目的にむかって、意識して行動することが大切だと思っていました。

いくら意識をしようと思っても、
 本当に身についていないものは、
 そんな意識におかまいなしに、勝手に反射しています。

何を知っているかよりも、
 知る過程で身についた、学び方の方が大切なような気がします。

今まで、学び方ということに意識なんて向けませんでした。
 ひたすら、与えられたことを繰り返して、覚えようとしていました。

数学や物理でも解き方を覚えていました。

しかし、数学や物理は得意になりました。
 今は問題は解けなくなっていますが、
 問題を解いていた時に、答えではなく、
 あーでもない、こーでもない、
 この公式では、この定理ではと
 考える過程を楽しんで、解けた時の嬉しさが、
 面白かったですね。

面白くなって来て、伸びたものはそのようにしてきたような気がしています。

私が、私であるのは、学び、記憶した過程が、どのようであったかで、
 決まってきているような気がする。

できたこと、できなかったことも含めて自分であるということ。

できなかったというより、できないと思い込まされて、
 遠ざかってきたことの要因の方が大きいような気がする。

できたできない、
 正しい、正しくない

そんなことより、それに至るプロセス、
 つまり、学習するプロセスの方が、自分を作っています。

ゴールにたどり着けば終わり、
 大切なことは、その過程だということです。


Originally published at といてら渋谷.

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