2005年の著書『ゲリラ形而上学』で、グレアム・ハーマンは、世界は哲学を必要としていないと述べている。世界を知的に基礎づけてくれる営みという意味での哲学などあってもなくても世界は存在している、ハーマンはこう考えている。それでもハーマンは哲学を論じている。なぜそんなことをするのか。べつに必要とされていないなら、しなくてもいいではないか。
ハーマンは、必要とされていないから哲学をしないのではない。必要とされていなくても、それでも哲学をしている。そこには、哲学にかかわるハーマンなりの独自の再設定がある。
デランダとの対談でも述べているように、ハーマンは、自分の哲学者としての経歴が典型的でないと言っている。つまり、どことなく不思議な経路で哲学書を書いている、ということだろう。そうであればなおさら独自の設定を持たないと書き続けることはできないと思われるが、ハーマンは、哲学を次のように規定し直す。すなわちそこで問われるのは、いかにして世界に魅了されるか、いかにして世界へと関わっていくか、である。周囲から距離をおき、批判的に何かを言うのではなく、世界へと魅了されつつ、そこでいろんなもの、場所、動物、ジュースの味、野球チームの歴史、生きている言語と死に絶えた言語など何であれ魅了されていこうとする。そのうえで、めざましいもの、驚くべきものと、そうでないもの、つまりは型通りでありきたりのことと区別するために知性を働かせていく。これが哲学だと、ハーマンは言う。
ここからハーマンはOOOやらSRやらを提唱し、一つの独自のムーブメントを生じさせてしまうのだが、おそらくその起点には、「世界は哲学を必要としていない」という、なかなか辛い自己認識ではなかったかと思われる。そこから、逆に世界へとみずから魅了されていこうという姿勢に転じたのだろうが、この姿勢から多くのことが学べるはずだ。

「人新世の哲学」という本を出したら、建築学会が出している「建築雑誌」から声がかかり、座談会に出た。相手は蓑原敬さん、羽鳥達也さん、村上暁信さんというそうそうたる人たちで何が話せるのかわからんがとりあえず本で書いたことをベースに話そうと思ったらけっこう議論が盛り上がった。他にも、先日とある研究会(生命倫理系)に呼ばれて医学系の人などを相手に話をしたら、そこでも不思議とインスピレーションを与えたみたいで、どういうインスピレーションを受け取ってくれているのかはわからないが、とにかく、そういうことが最近起きている。

ならば、もっとこちらから情報発信するとか、人と話した感想を書くとか、いろいろしたほうがいいのかと思うようになっている。たとえば以前建築家たちを相手に行ったインタヴューというのがあるのだが出版できないかいろいろ交渉したもののうまくいかなかったのだが、それをこのまま死蔵させるのももったいないのでこれを公開し(許可はいるだろうけれど)、ほかにもこれからジャンル横断的にインタヴューするとかして記事にするとか、そういうことをしてみたい。

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